Wednesday, February 22, 2006

痛痒告白

欝の自分。
正直に書こう。此処では躁の自分だけを出して、アフェリエイト専門って思ったけど、呼んでくださる方が一人でもいてくれるなら、残らず書こう。
ぼちぼちと。

と……指が止まる。はっきりと憶えていないのだ。一番酷かったときは、結婚して二ヶ月目から。旦那はわたしのほうが稼ぎはいいのを嫌がり、仕事を一旦止めさせた。悪いことに社宅だった。
昼ドラに出てくるみたいに、本津に夫に上下間が妻の上下間を、ひいては社宅内の掟を決めていた。
そして夫、彼は二歳年下で、わたしに随分酷いことをしてくれた。結婚前からだ。何故結婚しちゃったのかは自分でも理解不能。
彼は気に入らないと殴る、蹴る。用意した食事を見ている前でゴミ箱に捨てる。そして作り直させる。仕事でわたしのほうが遅くなったときも、コンビニ弁当を買って帰ったら、「今二十三時、まだ間に合う、作れ」と駄々を捏ねる。
喧嘩した翌日、それでも四時半おきで作ったお弁当を渡すと、「フ~ン」と徐に包みを明けふたを開け、バカっとゴミ箱に捨てる。
「お前がヘンな物しか作らないから俺の給料が無駄になる」
「お前なんかみっともなくて友達に見せられない」
「恥ずかしいから綺麗にしてろ、休みだからって化粧して飾って、やっと普通のブスなんだから」
とまあ、言葉と肉体の暴力の嵐。
わたしは何とか前の仕事先からパートタイムジョブを貰い、一年目は逃げ出せた。
が、二年目、なんと組長になってしまった。
以降はもう常識外れの苛めの連続。
「共有部分のゴミ箱を風呂場で洗って来い」「最近の若い子は出歩いて派手でやることを全くやらない」「もう五時だよ、こんなに遅くまで仕事? 遊んでるんじゃない?」「組長だからアレノアンケートとソレの募金とコレの回覧を今日中にしなさい」「できなかったら罰として駐車場の草むしりだよ」
小学校の苛めかよ?
気が付いたら、ドメストで顔や体中を、皮が向けるまで擦るようになってた。それでも自分が汚く思えて、エラノールで体中拭った。まだまだ汚く思えて、飲んだ。

で、病院に放り込まれた。

その頃はまだ、161センチで38キロあった。が、僅か二ヶ月で25キロに減った。かなり幼い頃から過食嘔吐の習慣があったから。
過食嘔吐は母から教わったのだ。わたしは三つからバレエ、小学校から体操部で、インターハイにも出てたから、少しでも体型が崩れるとコーチから親共々怒られた。
母は異常に敏感になり、わたしもソレに感染した。
だからこの歳で、過食嘔吐歴十六年なのだ。
で、わたしが死にかけ、ってか本当に死の寸前だと告知され、母と夫はやっと気がついたらしい。わたしは精神異常者になっていると。
過食嘔吐しても、母はやれと言うし、夫は汚いから傍に繰るなと突き放した。
厳しかった父は小さい頃もう死んでしまったから、何が正しいのか分からないまま、わたしは成長してしまった。

医者に「あなたは重度鬱病、加えて解離性同一性障害、そして身体はもう壊れている」といわれてもピンとこなかった。
わたしはいい子でやってきた。委員長やら生徒会やら、実力テストも球技会も仕事のプロジェクトもリーダーだった。
そんなわたしが病気の筈ない、医者は金欲しさで言うのだ、周囲もわたしを妬んで排除しようとするのだ、わたしが汚いから、醜いから。

醜いわたしが人並みより少し舌をキープするには、常に働かなくてはならなかった。学校、会社、町内会、すべてに於いて成績実績実力だけで生きてきた。
頼ること知らなかった。頼る前に頼られてしまい、頼れなかった。

今は少し落ち着いているが、米国の医師に言わせると、「殺人的」な大量の薬を服用している。
一度バイクで事故った時、余りの痩せ方と血圧(62と43)と血中薬物濃度に、外科の医者が驚いた。「しんでしまう」と外科医が呟いたのを憶えている。

ざっとこんなもんです。ロンドン生まれでアメリカ暮らしが長く、日本の閉鎖的、画一的なところが苦手だけど、こうしてウェヴで顔のない友人を作るのは、慰めにはなる。自慰行為だ。
たまらなく寂しい。
誰に謝られても、許し方が分からない、笑い方も泣き方も、わたしは知らない。

幼少期。
貿易センター

わたしはロンドン生まれで、生後二日で修道院へ預けられました。
なので、親、と言う概念がわたしの常識から欠落しています。
風六で国籍を決めるとき、存命中だった父から色々話を聞き、何故兄と二人預けられたのかも納得して、日本国籍を得ました。

ですが、修道院では男女別々で兄と滅多に会えず、思い出す限り他人の中で生きてきたので、血の繋がりや親子関係というものが全く理解不能なのです。

修道院はとても厳しく、食事は質素だけどマナーが厳格で、ナイフ、フォーク、スプーンの使い方、パン、スープ、果実の食べ方、立居振舞、挨拶、お祈りなど、それらが一人前にできるまで、皆と同じ食卓につけません。
お陰で英語やカトリックのマナーは苦労しませんが、訛ってます。

六歳の八月、ロンドン市内の小学校へ行くのだと楽しみで、年長の人から貰ったお古のランドセルを毎日嬉しく眺めていた頃、突然、見知らぬ男女が現れました。
そう、両親です。
シスターから唐突にそう教えられ、今日からこの人たちと兄と四人で暮らすのだ、と告げられました。
吃驚です。
父母なんて、概念自体がなく、神の子だと教わってきたのに、急に人間の親がいるといわれても、全く理解できませんでした。ただ、兄と毎日会えるのが嬉しかった。
しかし、後からあてがわれたような親と上手くいくわけもなく、結論、十六で一人暮らし。三つ上の兄が調教の大学へ行って、三人で暮らすのが耐えられなかった。親はシスターより厳しく、父は良く殴り蹴り、母は「やいと」といって、マッチの火を掌で握らせるという荒業で、わたし達を躾けました。
いまなら虐待?
兄は今も東京と米国要ったり着たりの実業家になり、でも家族というものが怖いのか、結婚しません。
わたしは結婚して、壊れました。家族というものを知らない六年間で、わたしはかなり非常識だったらしく、「夫婦だろ」とか「他人じゃない」と夫から怒鳴られても、「だって他人じゃん」としか応えられませんでした。
きっぱり言うと、Hも嫌いです。
とても淫らな気がします。しないと子供ができない、そう知ったのは十五のとき。
ホントにネンネちゃんでした。
そうは要っても、女より男の友人のほうが多く、話もバイクやロックや車や旅行の話で盛り上がりますが、いざ、て手雰囲気になると逃げちゃうのです。
おかしいですか?
でも嫌いなんです。
神様に怒られるみたいで。そうしてわたしが父と母とのあいだに生まれたと思うと、自分がとても汚く思えて。
鬱病になる要素は、生まれたときからあったようです。ただ、あのままロンドンで暮らせたら、イエローと差別されても、勤勉で禁欲的に生きていけたと思います。
尼になりたいです。
髪の毛なんて、どうせ天然茶髪だから要りません。
長い髪にしてるのは、其れが女らしいといわれたから。
まるで女捨ててるわたしですが、幼い頃のマナーだけは今も守って、礼儀正しさには自信があります。
小学校も、もうグループが出来上がってるところに、六に日本語も放せない茶髪女の入る余地はなく、ならば作れと作り、いらいずーーーっと何とか委員をやっていました。
窮屈だったけど、確かにあの頃は今よりずっと幸せでした。
友人との些細な喧嘩が、人生を揺るがすような一大事に思えたり、片思いの男の子に挨拶したり、お弁当交換したりするだけで人生最大の幸せと思ったり。
皆そうですよね。
そうした小さな幸せ感を、少しずつ捨てながら、大人になっちゃうんですね。
マイケル・ジャクソンの気持ちが分かる。
わたしにも財力があればネヴァーランドを築くのに。
今したいこと、逃げて引きこもりたい、それだけ。


欝も十三年目。
わたしの鬱病は治まること知らないようです。
もっと長い方もいらっしゃるのでよね。それでも生きておられる、尊敬します。
わたしの場合、解離性同一性障害、つまり多重人格が大半を占めていて、でも撃つにしておかないと保険や32条の適用が無いから、鬱病ってことになってます。

わたしの中に、現在四人います。母に言わせるともっと多いそうですが、自分で人格交替が分かるのは四人です。
とても卑猥な十八の娘、甘たっれで泣き虫の男の子、酷く凶暴な若い男、厳格で自他に厳しいシスター。

最も困るのが、本質の部分の自分を見失ってしまったことです。

わたしは赤ん坊のとき施設に入れられ、他人の中で育ち、六歳で家族と暮らし始めましたが、その時々で押さないながらも人格を使い分ける癖ができて、それが十二年前、結婚して社宅に入り、夫の暴力に耐えている中で、顕わになりました。

家では無口で手間をかけないおとなしい子、学校ではリーダーシップを発揮する明るい活発なスポーツ好きの女の子、一人のときは自己嫌悪で自分の腹に針を刺す癖のある異常な暗い子、中学に入り町で遊ぶときは自己防衛のためにならったから手を振り回す凶暴なスケ番。

どれが本当の自分か、いまだ持って不明です。多分臆病で泣き虫の男の子でしょう。でもわたし、女なんです。だから困るんです。

膨らみ始めた胸、初潮、脇や陰毛、性を感じさせる全てが恥ずかしくて嫌いで汚く不潔に思えて、女なんて止めたくて、正直SEX大嫌いです。
どんな体位もいや。男にのしかかられるのも、要求されて上になるのも、おざなりにバックでやられるのも、全部嫌です。

だから子供なんて夢のまた夢、大体どう育てていいか分からない。私自身親という概念泣く此処迄生きてきたから、親に慣れと岩手もどうして言いか分からないです。同じ境遇の人は一杯いて、ちゃんと真っ当に生きているのに、どうして私は駄目なんだろうって思うと、また自己嫌悪に陥って、自傷行為が始まります。

自慰行為はしたことありません。友達の猥談にもついていけません。ジョークならできるけど、マジに不感症だの不能だの話されても、汚く思うだけで、親身になれません。

いけないのでしょうか? SEX嫌いだと。
精神科医はおかしいといいます。法律でも民法親族編でしっかり、夫婦の同居義務に性交渉を含むとあります。
法律がそんな猥褻なことを定めていいのでしょうか?
成功しょうがなく別居して五年経過すれば離婚成立となります。なら私たち夫婦はとっくに離婚です。
法律さえ、SEX嫌いな私を守ってくれない。だけど、夫婦間でも強姦罪は認められるようになりました。少しほっとしています。

精神科医の命令で、夫とは別居中ですが、偶に会うと迫ってくるので、一度警察に電話したこともあります。
警察は民事不介入といって、きてくれませんでした。
夫から直後、酷い暴行を受けました。まだ傷が痛みます。

どうしたらいいのか、生きているのがうんざりです。此処迄の欝はたまにですが、もう指は何度も剃刀をなぞっています。
助けて欲しくてこうして書き込みしても、誰も助けてはくれません。

この甘ったれこそ、わたしの本性なのだと、今更に実感しました。

こんな女、殺したい。他人に対して抱くような殺意を、自分に向けています。
自傷行為ではないのです。他人に対する暴行なのです。殺したほど憎い相手が、偶々自分だったというだけで、正確には自己嫌悪ではないのです。

どうしましょうか、このわたし。
海底たら少し気が晴れました。すみません、日曜日に嫌な話で。
読まれなくてもいいのです。吐き出し場所が欲しいだけですから。
……なんて強がり、本音は読んで欲しい、慰めて欲しい、です。


辛かった頃。
精神科医が言いました。
「辛かったときのことは、自然と何時か忘れます」と。

馬鹿言ってンじゃないよっって、あの頃は思いましたが、本当でした。思い出せないのです。わたしを苛めた人たちの顔も、殴られ蹴られた痛みも、母の暴言も。

夫は百八十度変わってくれました。精神科医が相当叱ったらしいです。何も言いませんが、寒いときは人目を憚らず手を繋いでくれるし、遠出すると何度でも休憩してくれます。

社宅でのあの人は何処へいったのか、一度訊いてみたら、「俺にもわかんない」ですって。わたしも忘れちゃったので、丁度いいか、って、今は笑い合えます。
こんなに恵まれたわたしは、世界で一番幸せなのだと思います。

確かにいまだ、薬漬けだし、リスカもアムカもネクカもするし、死にたいし、自分が嫌いで憎いし、傍目とは全然違う苦しみは続いていて、苛まれています。

でも、体重も四十キロまで上げたし、白米やラーメンなど元から嫌いなものは食べられないけど、誰と何処へ旅行へ行っても、以前のように病気とか偏食とか思われなくなったし。
普通の不利ができるようになった、此れが一番大きな進歩です。

今日は死んだ父や祖父母やわんこ達が帰ってくる、そう思うと、「ああ、つぐなわなきゃ」って思います。

わたしは自滅ばかり望んできたけど、真に滅すべきは、無駄に食べてはいた食べ物、便器を泣きながら磨いていた母、一人の部屋でなきながら眠った夫への罪なのですね。

でもリアルに思い出せるのは、飛び散るゲロ。
便器に顔突っ込んで、便器の水とゲロとがビシャっと顔に跳ね返って、お腹抑えるからその上に下痢して、又その上にゲロするという三層の汚物のにおい。

汚い話です。自分で信じられません。清潔好きなのに、汚れた便器やトイレの床に長い髪が触れ、濡れて、顔には点々とゲロと代弁の飛沫が付着する。

トイレは黴だらけ。臭いも取れない。次に入る人に分からなくしようと必死に「トイレその後に」をスプレーしたあの地獄の日々。

入院したって止まりません。他人の食べ残しをビニール袋に入れ、もう魚もご飯も野菜も味ごちゃごちゃでも気にせず、ただ吐くために食う。
看護師に叱られると、恥かしくて次の日から水すら口にしなくなる。

オール・オア・ナッシングだったんです。吐くほど食べるか、全く食べない飲まないか、どっちにせよ、胃を空っぽの状態にしておかないと肥りそうで怖い。
25キロしかないのに、肥るのが怖い。
薬だって、ビタミン剤は肥りそうで怖い。糖衣錠は甘味を洗い流してからしか飲まない。完全に狂ってますね。

はくときは徹底的。信じられい量を詰め込み、先ず一回目に吐く。
二度目はゼリーとかスープとか、水分の多いものを詰め込んで、固形の残りを一緒に吐く。
次はローカロリーのジュースや味噌汁、お粥を飲んで吐く。
最後に、水をがぶ飲みして、三度吐く。胃洗浄の積りで。一欠けらでも固形物を発見すると、もうとにかく水で胃洗浄する。

だから痩せてても、胃発情の三倍くらいに拡張して、内臓全体が脂肪の支えをなくし垂れ下がり、下腹だけぼこっと出ている、餓鬼みたいでした。
アフリカの栄養失調の子供みたいな。でも彼等は仕方なくああなっていて、わたしは好きでこうなっていて、そう思うと余計ストレスで食べてしまう、吐いてしまう。悪循環。自分では止まりませんでした。

母の一言、「もうお金ない」を聞くまでは。

今は過食嘔吐だけはきっぱり止まっています。
必ず治ります。治さなきゃならないのです。田獲物を買うお金をくれる親が死んだら、どうします?
異常な痩せ方では昨今どこも雇ってくれません。生活保護のお金で帰る食物は知れています。きっと満足できず、万引きに走ります。
一生そうしているのですか?
就職しても、結婚しても、子供ができても、八十過ぎても、食べてはいてしているのですか?

欝とは全く別物です。治してください! 絶対後悔しません。治ったら楽しいこと、欲しかったもの、喜び、優しさ、色んなものが手にはいりますよ。
高い服だって、吐くために食べた食費の分で買えます。
負けないで!!!


殺したい!
どうしても殺したいやつがいる。
この自分だ。

わたしは解離性同一性障害、だ。
多重人格。自分の体が憎くて殺したくて仕方が無い。
だからわたしの自傷行為は、決して自傷でなく、他人に対する傷害なのだ。偶々、傷害の対象が外でなく内に向っただけ。
精神科医は日米でわたしを調べ、非常に稀有な症例、研究対象にしたい、この薬を試してくれ、脳波計をつけさせろ、八月一杯入院しろ、夢の内容を全てノートに書き提出しろ、と、五月蝿い。
わたしは何だ? 気違いで結構だが、生き物とし、せめてマウス程度の扱いを受けたい。

でないともう今直ぐにでも、自分で自分を他殺しそうだ。

毎夜その夢を見る。念入りに殺す。首を斬り落とし、転げた頭部を叩き潰し、視界がなくなって目が覚める。と、生きている。そのときのわたしの落胆が、健常者に分かるだろうか?

がっかりするのだ、あんなに入念に殺したのに、掻き毟った傷痕だらけの自分生きた体を見て!

殺したい、殺させろ、アイツは生かしておいちゃいけない、二酸化炭素を排出するだけでこの世の害だ、死ね、殺せ、焼き払え!
あ~~~つかれた。


痩せてよかった?
と、よく聞かれる。そんなにやせて、何かいいことある?と。

無かった。何も無かった。

観ていて悲しくなるほどに、わたしは痩せた。一番酷いときで22.3キロだった。直ぐ二十五キロに持ち直したけど。二十五~二十八キロが八年続いた。

何処へ言っても異様な目で見られた。眼球がギョロンと飛び出し、胸はペラペラ、背中は魚の骨みたいに肋骨が浮き出て、下腹部だけがぼっこりせり出している。

内臓が全部下垂してしまったのだ。一九九七年七月、三ヶ月栄養点滴の入院をした。両手の指先が腐りかけたのだ。というか、腐って爪が剥がれてしまった。血が末端へ行かず、死んでしまった。冷たくジメジメしてジュクジュク膿んだ。
気持ち悪くてドメストでごしごし擦っていたら、爪がぽろんと取れた。

さすがにショックだった。
母は本人よりずっとショックだったようだ。泣いた。此れでもかってほど泣いた。
指がもげた本人より泣いた。
可哀想だった。今もわたしの指先は、其の痕跡がしっかり残っている。
指先を途中でちょん切ったように、爪の縦幅より横幅のほうが二倍くらい広い。
小さな爪になった。
別に私はどうでも良かったのだが、職業柄キーボードが打てないと困った。
そのためだけに入院したら、三ヶ月に至った。十度の凍傷の様なものだった。医者は保険適用内で、指先を整形してくれた。爪を何とかくっつけてくれた。

感謝はしている。死ぬまでは生きなくてはならない。
生きるならしっかり生きたい。一杯苦しんで憎まれて恨まれて、わたしの存在をできる限り沢山の人の脳に焼き付けたい。

わたしは多分子供はできない。SEX嫌いだし、生理なんて何時あったのか思い出せない。だから何も残さず産まず唯一人ゴミになるのが、堪らなく怖い。
わたしが死んだら、誰か墓参りしてくれるか、其の前に遺体の引き取り手があるか、遺骨は多分地下鉄の網棚にわざと忘れられて、不燃物として処理されるんだろうなあ。

それでもいい、といえるほど、強くない。
わたしは本当に弱い。だから他人を攻撃する。責められる前に責める、攻める。
嫌われても憎まれても忘れないで、かなり矛盾しているがわたしの本音だ。
殺したいほど憎いのに、そいつの存在がこの世から抹消されるのが悔しい。
こんなに悪い奴だった、屑だった、ゴキブリより汚かったと、憶えていて欲しい。

凄く身勝手な本音。
こんな女死ねばいい。でも忘れられるのは許せない。こいつの罪を皆に知らせて憎んで欲しい。


コンビニ来店拒否された!
近所のコンビニで来店拒否された。
「あんたが障ったもの全部買ってってよ、気味が悪いんだよ、あんた。他のお客が近寄らないよ」
ってのが店主のお言葉だった。
あれから数年経ち、わたしは何処へ行ってももう、病気と見られないまでに回復したけれど、内面では夜毎自分を殺す。
念入りに、頭を切り落とし、視線が地面に沿い、身体だけが岩を持ち上げ頭部に叩きつける。
上になった右目が潰れて、視界が半分に真っ赤になる。
まだまだ許せない。尚も岩を落とす。頭蓋骨が軋み皹入る音がして、脳漿が耳から流れ出る。
左目も弾け、完全に視界がなくなると、目が覚める。
がっかりする。
まだ生きていやがる、この憎らしい身体、狂った精神、潰したい、消したい、殺したい!
毎朝この繰り返し。今も続く。今朝もそうだった。多分明日も明後日もそうだろう。
リスカなんて甘っちょろいマネは卒業した。
頚動脈だ。唯場所が問題。自殺現場じゃ後々この家売るに売れない。
遺族に迷惑だ。
死んでもわたしは迷惑だ。
何処へ行けば、安息が見付かるのかな。
ヒルナミン、ベゲタミン、コントミン、ハルシオン、ロプヒノール、アモバン、レンデム、トリプタノール、パキシル、呑むのが大変なこの睡眠薬を毎晩飲むけど、どろりとした重い意識不鮮明がくるだけ。
夢の無い眠りを忘れてもう十六年経つ。
身体が薬に慣れてしまい、手術したとき麻酔が効かなかった。でもその痛みが快感だった。
死を覚った。このまま心臓を取り出して、チューブを全部外して欲しかった。一時間たてば、死体が一個出来上がりだ。病院なら死んでも迷惑はかけない。
入院中のことも徒然書こう。

わたしには三種類の入院がある。
一、悪性リンパ腫の切除手術及び放射線治療。
二、銃宇津縫う津から来る自殺と体重減少防止。
三、過食嘔吐を叩きなおすために無理矢理肥らせるため。


一はまあ、辛いけど傍目がいいのでよし。家族も恥かしがらずに病院へ来られる。
二は結構、一目を気にする。なんていっても精神科病棟へ向うのは恥かしいらしい。本人だって恥かしい。わたしが入院する精神科病棟は拘束衣や器具や部屋を完備した本格的な気違い病棟だ。心療内科なんて可愛いものではない。
三は地獄、だ。右の鎖骨に穴を開けられチューブを通される。其処から蛋白質、脂肪、糖質、他無機質らを二十四時間ず~~~~~っと流し込まれて肥らされる。

この四月から大学院に通っているが、六月に癌入院、七月に欝入院した。体重は何とか三十八キロをキープしているのでチューブは無しだった。

癌入院では知り合った人が何人も死んだ。だから生きていることの貴さを知った……なあああ~~~~んてこと思うかっての
死にたくは無い、殺したい。苦しめてじわじわと、指一本一本引きちぎって殺したい。死んでった人が羨ましかった。本音だ。
だって家族が泣いてくれるもの。
可哀想にって、言ってくれるもの。
頑張ったねって、褒めてくれるもの。

わたしが死んだら、喜ぶやつの顔は浮かぶ。仕事上ではうようよいる。わたしが邪魔だそうだ。営業成績や客受けがいいから、もっていかれる、という。
悔しけりゃ、媚び諂って胸触らせてケツ撫でさせて、機嫌取れよ。

媚び諂うのはわたしの特技だ、長年の苦労で身に付けた立派な技術だ。
マルチリンガルも同じ、コネティカットで磨いた独仏語、イラク、アフガンで磨いたアラブ、マレー語だってシンガポールからの電話は全部わたしに回すのだから、少しは感謝しろ。
でも、それらが全部邪魔、らしいのだ。いなけりゃ困るがいたら鬱陶しい、そんな存在だ。だからわたしは死んだら、かなりの男や女が喜びながら泣き真似し、数時間電話応対に困り、三時間後には代替物を見つけ、忘れてしまうだろう。

この世の中、一体何が普通なのか、誰か教えて欲しい。


消えたくなる日。
今まで、といっても八月からだが、使用してきたブログのタイトルが、誰か知らない人とダブっているということで、厳しく注意され、直した。
語呂は同じで漢字を変えた。が、まだご不満だったようで、心臓飛び出るくらいヘンなカキコがあって迷惑していると、また叱られた。
わたしは何をやっても駄目だ。コンピューターすらまともに相手にしてくれないのか。仕事柄PCに向い、顧客やメーカーとも接する。
仕事ではPC,ちゃんと動いてくれる。わたしはバグッたらそのようにバグってくれるし、決して裏切らない。
顧客からは受けがいい。上司からも受けがいい。何故かは知らない。多分便利だから、それだけだろう。
でも、詩庶務の女子と話していている真っ最中に、技術畑のわたしに名指しで「本社からお客だよ、お茶頼む」「ドイツからメーカーさんが来たんでコーヒー五つね」と、言うな嗚呼嗚呼!!!!
当然女の子はむくれる。わたしは接客する。これまたなぜか受けがいい。
わたしは生まれが修道院だったため、非常に厳格なしつけをされた。
食事に始まり、お祈り、英語の敬語、挨拶、歩き方まで、起きてから寝るまでズ~~~~ット躾けだった。
日本に来てからも、父がこれまた厳しく、食事は約半年、日本料理の一般儀礼を憶えるまで、親と同じテーブルにはつかせてもらえなかった。
「箸は咲き二センチしか汚しちゃ駄目」「只今とは何だ、只今帰りましたといえ!!!」と、兎に角厳しかった。

現在の欝の原因がそこらあたりに潜んでいる気がする。そう思って、鬱病と宣告されて一年位して、もっと酷くなった頃、医師にそういった幼児体験を話した。
精神科医はあてにならなかった。
全部は親に確認したのだ。当然親は赤面、激怒。
凄まじい折檻を引っさげて帰宅した。
父の顔が金鯱より怖い、鬼瓦より怖い、と思ったら、父が恥を掻かせたなといって、いつにも増して激しく殴られ蹴られた。

「お前の気違いはお前は好きで勝手になったんだ! 親の所為にするな! この恥曝しが! お前みたいな気違いは出て行け!」

といわれたのが、高一の春休み。
で、家を出た。
消えたかった。死にたいでなく、自分が生きていた証拠全部をみんなの記憶から抹消して、無になりたかった。
十六のわたしには辛すぎた。既に過食嘔吐もやっていたから、一人でどうやって生きていこうか困った。
困り果てて、高校の先輩に話し、超安いおんぼろアパート暮らしが始まった。

楽しかった。パンの耳だけを買い、吐いた。煙草も覚えた。SEXは嫌いだった。
ドラッグもやった。コカは最初嘔吐感しかなかったが、次第に気持ちよくなった。
でもお金が無く、最初から売屋の目的だった売春を強要されて、止めた。
別に禁断症状も無かった。食べて吐いていれば、全てのストレスが発散できた。
煙草は今も止められない。
やめる気もない。
痩せたい方、お勧めします。どうせ不健康にでも痩せたいなら、小腹の誘惑に打ち勝てる強い味方です。

SEXはいつまで経っても嫌い。結婚したって嫌いは嫌い。断が迫ってくると、吐き気がする。拒めば亡き父と同様の暴力。
わたしの父もいやらしかった。
小学校五年の頃、膨らみ始めた胸を見せろというのだ。
ブラが必要かどうか、母が父に相談したらしかった。母も母だ。ンなこと父に話すなよ。父は興味深そうにじーっと見て、触った。いじくられた。

其れも精神科医に言った。医者は想定通り、其れが性交渉への嫌悪の原因だという。あんたに言われなくても分かってるって。

母も性に関していやらしい。体操部だったから、ボディラインがどうしても出てしまい、大会を見に来るたび、ボディラインについて言うのだ。
「丸みが出てきたね」「膨らんできたね」「もう下の毛はえてるんでしょ?」「脇も剃らなくちゃ」「ちょっと一度よく見せて」
もう厭だ!

何で女に生まれたんだろう????
男になりたい!!! 男には男の苦労があるのだろうけど、少なくとも、性行為の被害者にはならない。

あ、男同士の強姦もありか。

あ~~~、旦那が帰ってくると嫌だな。今は外国へ長期出張中、だから気が晴れて気分がいいし、其のおかげで過食嘔吐も治った。
でも欝は治らない。会うのが疎になるほど、嫌いさが増す。

ベッカムみたいならいいが、うちのは友人から「カールおじさんの頭とムーミンの身体を合体させたみたい」といわれる不細工だ。

何で結婚したか、強姦されたから。汚されたから責任とって貰っただけ。それに、ホカの男がよってこなくなると思った。性に関しては兎に角嫌い。

もうじき夫が帰国する。わたしが何度も自殺未遂し、精神科医に叱られて後、夫も母も随分変わってくれたが、それでも嫌い。

消えたい。もう自分を殺すとか自殺とか、生易しいもんじゃなく、生まれたこと自体を歴史から抹消して欲しい。
誰からも忘れられたい。
本とは寂しい。寂しいけど、猥褻な事を強要されるよりはいい。

帰りたい……何処へだろう?


虐めの嵐。
と、精神科医に言われた。
母も強引な父に負けて、屈して、結婚した。わたしもそうだ。
そして同じように暴力を受けた。
医者もたまにはちゃんとしたことをいうものだ。

母は異常にわたしを偏執愛した。体操部でレオタードを切るの嫌がった。
卑猥だというのだ。女を武器にして身体を晒し男の審査員に媚を売る行為だといい、責めた。
「小さいときに激しい運動をすると処女膜という女の証が敗れて結婚できないよ」

これって小学三年生の子供に言うことかああ~~~!?

全然意味わかんなかった。
ただ母に反抗したくて、それに学校でちやほやされたくて、痩せた身体を自慢したくて、体操部を小中高と続けた。

確かにいやらしい真似はされた。

審査員から呼び出され、触られ、「もし誰かに言ったら落とすぞ」と脅されたり。
顧問の教師からも同様の呼び出し&個人レッスンを受けた。
何で男はああもいやらしいのか??? 女の殻を触って、何が楽しいのか???
全然理解できない。

最近では、性交渉ともに日常でも女性上位らしく、女の上司から猥褻行為をされたという相談をよく受ける。
きまって大学でたての新入社員だ。
わたしだってこれ以上に汲まれるのは嫌だから、同情してもそれ以上は何もできない。人事に言って、彼の配置換えを頼むだけだ。

最近何故かわたしは年下キラーといわれる。
若い頃はおじさんキラーといわれ、女子から壮絶な嫌がらせを受けた。負けなかったら、無視に変わった。

一度なんか、丁度十二月ニ十四日の金曜日、同じ事務所の女子全員が、わたしだけ残して有休を取った。もういなかだからオフィスとは呼べなかった。
わたしは出向で三重にきていた。二年限定で。其れが女子にとっては気に入らないらしかった。
わたしはバイク乗りだし、車のパーツなんかにも詳しい。だから当然、ブランド好きの女の子より男と話があう。
仕事もそのためにきているのだから専門知識がある。
全てが苛めの理由になった。

お弁当は一人で食べたし、湯飲み洗いも一人だった。
でも朝一番早くきてゴミ箱や机を綺麗にし、モップ掛けした。コピーだって男性社員がお昼も食べずにやっているのを代わって、「お昼食べてきてください」といった。何で其れが苛めの対象になるのだ???

「あの子昼休みサボってる」
と、陰口も叩かれた。普通昼休みはサボるもんじゃないのか???

神が茶色いからと苛められたのはもう小学校のときから。
中学では愛知県はかなり厳しい管理教育で、何度も神に水をぶっ掛けられた。
天然ですと母親が言っても信用しなかった。
仕方ないところもある。わたしは三歳でお守りのピアスをしていたから、あの頃ではかなりの不良に見えて当然だった。

スカートの長さ、セーラー服の短さ、前髪は眉上、肩に触れる長さの紙は三つ編み、靴は白、区域外に出るときは必ず親の許可証を貰い生徒手帳とともに携帯しろ……やってられっか!!!
高校と大学は楽しかった。かなり自由だった。けど会社は閉鎖的で変質者ばっかりだった。

そして過食嘔吐が復活した。高校のとき一人グラスを始めたら止まると思っていた。お金が無いし。でも止まらなかった。バイトで稼ぎ、バイト先で客の残り物を食い、コンビニの廃棄弁当を格安で買い、猛烈に食べ、吐いた。

いつかは過食嘔吐は止まる……わたしもそう思っていた。思いながら十六年続いた。途中四年間抜けているから、通算すれば二十年だ。人生の半分以上、非人間であり続けた。

そして苛めにより、もっとストレスがたまり、休みを待ち侘び、朝から晩まで寝る間も惜しんで食べて吐いた。

苛めの所為にはできない。性的嫌がらせの所為にもできない。全て自分の弱さだ。
でも強いと他人から言われる。其れが又圧力に変換され、過食を招き、当然嘔吐を伴った。

今わたしは苛めについてのボランティアをしているが、昔より陰湿になったようだ。わつぃは学生時代は苛める側だったので、(苛められたらそれ以上のやり方で苛め返し、クラスを乗っ取った)心が痛む。
でも今の子供達は少し代わった。弾力性が全く無い。暖簾に腕押し、反応がとても鈍い。無気力だ。

わたしだったら気にもしないことを、自殺の理由にする。本人にとっては重大事、其れは分かるが、
「給食で牛乳をおかわりしたら皆から牛って言われた」
ってだけで、首をつる。リスカはいまどきを行ってる証拠で、痕がないとダサイといのだ。苛められると。

う~~~~ん、苛めの質も変わったなあ。
わたしがやったのは弁当屋ノートを隠したり、スカートを頭の上で結んじゃったり、体育のとき制服を濡らしたり……あ~~~、わたしって結構陰湿?

酷いことしたもんだなあ~~~、今になってしっぺ返し食らって当然か。
今日も無視の嵐が待っている。まあ、無視ならしてくれたほうが楽だけど。

だって嫌なのだ。強い誰かに合わせて、思ってもいない誰かの悪口を言ったり、頷いたり、一緒に無視したりするのは。

わたしはわたしでいたい。
この憎い自分であり続けたい。自分を憎みながら精一杯戦って死にたい。
誰かに迎合して、心にもない陰口を言うのは嫌だ。
でも最近、薬が増えた所為か、記憶が途切れる。
欠落というか、抜け落ちるのだ。偶に人の名前が分からず、出す名刺を間違えたり、メーカーとユーザーを間違えたりする。
此れは困る。
わたしから仕事と勉強と取り上げたら、全く何にも中身が無い、肉の塊になってしまう。肉すらも消えればいいが、肉だけ残るのではたまったものではない。

ああ、今日も苛めだ。無視だ。もうなれた? 慣れるかって!
寂しいよ、ホントは。惨めに思われるのが悲しいよ。
でも自分でありたい。だから今日も無視されに行く。
戦いは終わらない。

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