Thursday, February 16, 2006

不作為の罪

聖書で言う「罪」ということは、わたしたち日本人には分かりにくい。
「罪」といえば何か悪いことをすることで、何もしないことは罪にならないと考えやすい。
日光東照宮の猿ではないが、見ザル、聞かザル、言わザル、何もしないなら罪にならないというわけだ。
しかし、聖書では「何もしない」こと自体が、罪を犯すことにもなりうる。
タラントの譬(マタイ25:14~30)はそのことを示唆しているし、次の聖句の行間にもそのことが伺える。

其処に片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にその人を癒されるかどうかを伺っていた。
すると、イエスは人々に向って、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と言われた。

すなわち、安息日だからといって、善を行えるのに行わない(何もしない)のは悪を行うことであり、命を救うことができるのに救わない(何もしない)のは殺すに等しい。

罪(ハマルティア)とは、目標を「逸する、それる」ということで、
目標を目指して放たれた矢が目標から「それる」ことを意味している。成れるのに「成らない」こと、できるのに「しない」のは罪なのである。

M・ニーメラーはナチに抵抗し一九三七年から一九四五年までダッハウの強制収容所に収容されていた。
戦後その収容所を訪れ、死体焼却炉の前に「一九三三年から一九四五年まで二十三万八千七百五十六人がここで焼かれた」と書かれているのを見てショックを受ける。
死者の数にではなく「一九三三年から」ということに。
すなわち、一九三三年から一九三七年までの彼が自由であった四年間、「自分は何をしていたのか、何をしなかったのか」、ナチに手を貸したわけではないのだが、「何もしなかった」ということが彼には問題だったのだ。

ナチのような悪に対して積極的に加担しなくても、次の場合は同罪であるとの指摘は正しい。byE・ノイマン著「深層心理学と新しい倫理」
見ても行動しなかった人。
見ようとしなかったために見逃した人。
見ることができたのに見なかった人。
見る眼をもたなかった人。

見るということは、何が善で何が悪であるかを、単に判別するという問題ではない。
判別した後、どうすることによってその善を実現できるか、が問題なのだ。
ナチのような悪の権力が支配している時に「何もしない」ことは大きな問題なのだ。日本の事勿れ主義はそれ自体社会の病巣といえる。

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