逃れの町
旧約聖書の都市計画には、いわれのない罪で命を狙われている人が逃げ込める、「逃れの町」の設置が義務づけられている。
近代歴史で実際に「逃れの町」の働きをしてきた村がある。
フランスの中央高地にあるル・シャンボン村。
この百年、村民はすすんで難民を匿ってきた。
最初は第一次世界大戦で家を失った人々がやってきた。
三〇年代には内戦でスペインを追われた子女が逃げ込んできた。
第二次世界大戦下ではナチスの迫害から逃げまどう子女だった。
この一帯は宗教的迫害を逃れた農民たちが住み着いたといわれている。
だから追われている人を助ける伝統があった。
九〇年代にユダヤ人団体が記念の平和の森の建設を申し出たが、村議会は、「当然のことをしただけ。ユダヤ人だから助けたわけではないし、この村だけが助けたという話でもないから」と、断った。
このル・シャンボン村の四〇年代の働きを詳しく紹介した本がある。
フィリッピ・ハリー著『罪なき者の血を流すなかれ』だ。
当時の指導者A・トロクメ牧師らは、助けられる人のための助けであり、教会や援助機関の利益のためではないとの考えで、ユダヤ教の難民を改宗させようとは決してしなかった。
ナチの尋問に対して、難民をかくまっていることは素直に認めたが、どこに匿っているかについては固く返答を断った。
小さな村だから発見されやすいので、ナチに発見される前にスイスへ山越えさせるための、必要な証明書を偽造までした。
巨大なナチの勢力に抵抗することによって村の各家庭は大虐殺の危険に曝されたが、彼らは自分の良心に従って行動したのである。
それは旧約聖書の「逃れの町」の設置精神に相通じるものだ。
幾つかの町を選んで逃れの町とし、過って人を殺した者が逃げ込むことができるようにしなさい。(旧約聖書)
罪なき者の血が流され、その責任があなたに及ぶことがないようにするためである。
『逃れの町」の設置精神は、相手がどんな人間であれ、憎んだり殺したりするのを拒否することであり、単に自分が加害者にならなければいいということではなく、他人に害が加えられることを防がねばならないということである。
悪がこの世にはびこっているかぎり、中立的立場を取ろうとすることは悪の共犯者になることだ。
難民を戸口から立ち去らせることは、単なる援助の拒否ではなく、
閉ざされた戸は危害を加える道具であり、戸を閉じることは害を加えることである。
嘘をついてまで斥候を匿ったラハブの行為を新約聖書は絶賛している。
ル・シャンボンの人々と共通しているのは、自分のためでなく、救いを必要としている人のために命をかけた行為ということだ。
それが信仰であり隣人愛だと聖書はいっている。
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