Thursday, February 16, 2006

グニャグニャの青年達

現代青年の人格形成を眺めるとするならば、彼らの作っているあるいは彼らが加わっている人間集団の様相に目を向ければ、ヒントを得られそうかな。これはつまり、現代青年の風俗を概観するということにも繋がるだろう。

一般に現代日本の風俗現象は、青年を起点としてそれが他の世代にも広がるという特徴があるように思われる。
若さ礼讃の風潮が恐らく背景にあるのだろう。もちろん携帯の使用も、其の例に漏れない。
いずれにしても青年のコミュニケーション・スタイルを取り上げる場合、携帯の存在は無視できない。
いったい何故これほどに携帯は普及したのだろうか。単に便利というだけではないだろ~な~。

携帯が普及する前に一時期、ポケベルなるものが巷に出まわった。もちろん使い手は青年達だった。其れ以前は固定電話が、離れている人との言語的コミュニケーションの主たる手段だった。
ポケベルは言葉を直接伝えるものではなかったが、固定されていた電話機が、家から離れたとことの意味は大きかった。
つまり私的な会話なり連絡なりが、より一層可能になったのだ。携帯の使用に至って、私的会話は原則いつでも何処でも可能になった。

この、家、親、家族を離れて私的会話ができるようになったことの意味は、とくに青年にとって大きい。
何故なら、家を離れて(心理的に離れる場合ももちろん含めて)独自の人格を作り上げる大事な時期が青年期で、友人を初め、家族以外の人達との交わりを通じて、青年は人格を彫琢していく。
家に対しては当然秘密を持つことも多くなる。秘密を持つことはまた、自分らしさを伸ばしていくことにも繋がる。

しかし此処で疑問が生じる。
其の気になれば何もあれほど携帯を使わなくても、友達などとの連絡や会話はできるのではないか。
家に対する秘密も、別に携帯がなければ保てないということでもないだろう。となると、四六時中といってよいほど携帯塗れになっている今の青年にとって、携帯のもつ意味は、まだまだ他に何かありそうだ。

としての携帯か? 必要となったから購入するというよりも、持たなくてはならないから購入する携帯。青年達にとっての必需品(これをお守りと言った人がいた)である携帯の使われ方から、青年の人格の様相をさらに探るとしよう。

何時でも何処でも他者とコミュニケートできる
事柄や事態についてあれこれ対話するというだけではなく、単なる連絡にも用いる。連絡というよりも、今何処にいて何をしている、などといった一寸した繋がりの確認にも用いられる。
携帯コミュニケーションとはまさに、この繋がり、絆の確認行為を一つの大きな特徴とする。他者からみると他愛もないやりとりこそが、皆と何処かで自分は繋がっているのだと、安心するための大切な行為なのだ。
そんなことならべつに信頼感を他者に対して抱いていれば、いちいち確認作業をしなくてもよさそうに思えるかもしれない。
しかしこの信頼感が内的に確立されていないからこそ、彼らは確認を続けざるを得なくなっているのではないか
だとすると、現代青年の人格には不確実感が巣食っているということになる。他者や外的世界に対して信頼感がはっきり確立していないということと、内的自己が不安定なこととは対応している。

不安定とか不確実と言い切るのは、早とちりかもしれない。
現代青年の人格の様相は、外部世界と内的自己共に流動的な様相を色濃く持っていると言えそうだからだ。
流動的なことは不安定とも言えるが、他方、柔軟だとも言える。
いずれにせよ、コミュニケーション・ネットワークを友人間で一貫してもち続けることで、彼等青年の人格構造は、維持されているようだ。携帯は、其の不断のネットワーク構築のための必需アイテムとなっている。

ところで携帯は、即時的同時的コミュニケーションのためだけに使われているわけではない。対話以外の機能の一つにメール機能があげられるだろう。
これも一種の対話の延長のような性格をもってはいるが、大きな違いは、同時ではなく継時的とも言えるコミュニケーション特性にある。
メール機能は既にパソコンにおいても実現されているわけだが、いずれにせよ、情報や伝達の発信者が主導権を持っている。受信者には、伝達事項にどう対処するかが任されている。
もっともメール以外の通信手段も事情は同じであり、本質的な違いは無いと言える。

違いがあるとすれば、其の頻度の多さではないだろうか。
文章や書類にするとすると、それなりの手間もかかるし、そう簡単に次々と伝達するということはかなわない。其の点メールであれば、キーをちょんちょんと叩くだけで、即伝達が可能だ。

この点において自己中心性がより発揮されると言えないだろうか。気ままに送信することがより可能になっているのであり、それだけ、より自分中心に自分の都合が前面に出てきやすいのではないか。
自己中と言えば、現代人のどちらかといえばマイナスの特性として問題にされることがあったかに思う。其れも青年の人達の特徴の一つとして問題視されていたようだ。

自己中心ということは、其の場合利己的という意味を強く負わされているようだ。
自らの利益をまず優先し、人のそれは二の次にというニュアンスだ。このような面は、確かに現代日本人の多くに見られる特徴かもしれない。何も青年達だけに咎を帰するわけにはいかないだろう。

けれども、携帯メールの日常的使用状況を考え合わせると、現代青年の人格特性は、何も強固な自己を抱えた上での自己中心性などではなく、ネットワーク依存、他者依存を背景とした、むしろ小さな狭い自己形成あるいはルーズな自己形成を大きな特徴としているのではないだろうか。
先に絆としての携帯という言い方をしたが、外部世界との連携に依存する割合が大きければ大きいほど、実は内的自己がやせ細っていてルーズになっているのではないか。
其処にはやはり、状況依存が強いが故に、一種の危うさが伴っていそうだ。

携帯はまた、情報を蓄えたり入手したりするための優秀なツールでもある。
また、最近はカメラ機能なども併せ持つ携帯が普及している。
人類は其の賢さ故に、さまざまな道具を発明してきた。いわば自らの身体の機能や能力を、さらに拡張し強固にする道具を、だ携帯もまさに其のような機能や能力をもっている。

自分の携帯を紛失するということはまた、自分にとって大切な諸機能や諸能力を無くしてしまうことでもある
この手の平にすっぽり入るサイズの道具が、実は世界と繋がる目であり耳であり、記憶であり、ひいては自分の身体の大事な一部だ。
しかし、身体のもつ機能や能力をいわば外部装置化して其処に任せてしまったがために、本体の自分、自己のほうは、やはり幾らか貧しくなってしまったのではないか。

此処においても、内的自己がやせ細っているのではないかという危惧が生まれる。
便利な道具は何であれ、人間本来の何かを弱くしてしまう裏側の面を持っている。道具を発明するのが人間の人間たる一つの所以だとすれば、其の道具に依存すればするほど、自らの内側を貧しくするリスクを抱えるのは宿命かもしれない。

携帯もそうした道具、強力な道具の一つと言えそうだし、だとすれば、それが人間の何に影響を及ぼすのかを今後考えねばならない。
情報源としての携帯だが、手軽に情報を手に入れるとか保持することができるということは、それを内に蓄えておくという一種の緊張をあまりしなくても済むということにもなる。

手掛かりはすぐに外部から得られもするし、携帯のメモリーから取り出すこともできる。
其処で必要なのは、情報を欲しいという主体の意思であり決断だけだ。
強いて言えばあと必要なのは、キーを叩く一寸した労力だ。
このような生き方が可能になった時、青年の人格は、自らを際立たせていくという内的緊張を失いがちになり、軽くなったりルーズになったり気ままになったりするのではないか。
もちろん其処には、繰り返しになるが、危うさなり不確実さが伴うことは大いにありうる。

話しは跳ぶが、最近の青年の服装を見ると、ルーズさに一つの特徴があるように見える。
ズボンをかなり下げてはいたり、あるいは、仕事に向かうのにも拘らず、履き心地のゆるいサンダルで出掛けたりする。
また彼らの姿勢も特徴がある。
背中が丸まりがちなのは日本人全体とも言えるが、其処ら中にすぐペタリと座り込む。
顔を見れば口が開いている
とにかく今の若者には、どうも重力に抗する力が不足している。

余計な力が抜けて、いい意味で体が緩むのは大切なことだが、日常的に緩んでしまっている。身体だけではなく、例えば話し方でも語尾上げをし、とか~と曖昧な表現をして、どうも不確実な印象がある。
本来内的にいろいろなものを蓄え、内側から支えるものをしっかりと形成しなくてはならないのに、外部への依存が高ければ高いほど、青年の身体はグニャグニャになっていく。

其れはまた人格も、悪い意味でグニャグニャになっていることではないか、やはり心配だ。

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