Thursday, February 16, 2006

何故自殺はいけないか?

真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、此れが哲学の根本問題に答えることなのである

不条理の哲学で知られる二〇世紀フランスの作家、アルベール・カミュは、「シジフォスの神話」の冒頭に、こう書いている。

シジフォスは岩を山の頂まで運びあげるが、岩はその重みだけに転がり落ちてしまう。運び上げては転がり落ち、また運び上げては転がり落ちる。
無意味で、希望の無い労働を永遠に繰り返すシジフォスの努力に、人生の実相を見る人も少なく無い

ドイツの哲学者ニーチェは、キリスト教をはじめとする一切の既成の価値を徹底的に破壊し尽くした果てに、人生の新たな価値を創造しようとした。
其れは意味なき生の繰り返しを肯定することで、生の頂点が得られるというものだったが、ニーチェ自身は発狂し、死んでいる

相次ぐ少年犯罪を如何するか、激論が交わされたTV番組のさなか、「何故人を殺してはいけないのか」の一高校生の問いに、識者達の回答は無かった
以来、この問いは様々な視点から論じられたが、未だ正面から答え切った人を知らない。

一見、平凡な日常は、実は最も根本的な問題から目を背け続けている。そして人々は、心の空虚を抱えたまま、其れに驚きもせず、ただ漠然と生きている。
果たして、人生は生きるに値するものなのだろうか。
何故、どんなに苦しくても、自殺してはいけないのだろうか……。

如何して自殺をやめないのか? 人の若者の証言

 (TVにて)
僕の場合、激しい苛めとかではなく、小学校から高校にかけて、じわじわと精神的にダメージを受けていきた。クラスメートの中にいても違和感があり、溶け込めず、孤独を感じていたんだ。
大勢の中で感じる孤独は、独りぼっちでいる孤独よりもつらくて、高校二年の時、ひきこもりを選択した。
日本にいる、八〇万人のひきこもりの若者は、「生きる意味が見つからない」とか、「自分の存在価値が分からない」と言っている。ハッキリ言って命の実感はないし、生きる意味とか、教えてほしいだよ。オレ、このままなら死ぬよ。放っておけば、本当に。


(TVにて)
生きている実感とか生きている意味とか言っているけど、ずっと考えてしまうことだと思われる。
わたしは、二年前に自殺しようとした。「死んじゃダメだよ」って、ハッキリ言う人があるけど、わたしは、「死んじゃダメだよ」って、人には、まだ言えない。自分が渦中にいる時は分からないよね。
「生きていることって、いいことだよ」とか、「いつか、いいことあるよ」って言われても、そんなことあるわけないっていう気持ちになるよね。
「生きていなきゃだめだよ」と言われても、何を根拠にって思ってしまう。「生きていることって楽しいはず」とか、「生きているだけでいいんだ」って言われても、何を言ってるのって思うだろう。
全然分からない。
そんなきれいごとを言われても、全然、心に届かなかった。


(インターネット)
社会に入って労働し、自立することなく、親の援助で家にいるのをひきこもりだとすれば、僕はそうなる。最近、援助が途絶えたら如何なんだろう?って考える。自分の体で労働し、養ってゆくことに意味が見いだせ無い。ひきこもりは甘えかもしれ無い。だけど、其れ以上に、生きる意味が分からないのだ。
よく思うのは、高齢者の方に、「生きてきて、よかった?」って聞きたいなと。でも聞け無い。「よかったことなどない」、と言われるかもしれないからだ。「何とか生きてゆく」ことの必要性が分からないのだ。
ただ生きてゆくことのみ、なのだろうか。


(インターネット)
「生きる」が分からない。自分で自分を生かしていくことに、意味が見いだせない。心臓が動く、生きるだけでなくて、其れ以上を求めてしまう。考えられる限り、考えようと思われる。でも、きっと分かんないだろうなあ。僕の何倍も生きている人も分かってなさそうなんだもの。

(インターネット)
時には喜んだり、笑ったり、苦難を乗り越えたりといった波もあるけれど、その記憶を反芻しなければ、自分の過ごした時間も失われる気がする。生きるってことが分からないから、死んでもいいと思っている。

(インターネット)
諦めたのだ。自分が生きているということは、仕方がないことだと。どんなにつらくても、どんなに虚しくても、生きていかなければならないんだ。その虚しさの上に、人生を構築してゆくのだと。この虚しさに耐えて、自分がどれだけ何ができるか。そのための言わば、修行が、わたしの人生だと思ってる。

(インターネット)
生きる権利があるのならば、死ぬ権利が欲しい。自分から脳死状態になれるのなら、今でも其れを望む。生きたい人に臓器を提供して、生きたい人には生きてほしい。

(インターネット)
たまに、「何でも打ち明けて」とか言われることがある。
「頑張って」とか、「死なないで」とか。その度に、簡単に言わないでよ、とも思ってしまう。


(インターネット)
僕も今、自殺志願者だと思う。死に場所を求めてさまよっていると思う。
今までに死にたいと思った人達は、本当に、もう自殺というものを克服したのだろうか。
何かつまらないきっかけで、また自殺したいと思うかもしれない。その時は死ぬかもしれないと考えたことは無いか?


(インターネット)
惰性で生きている感じがする。街行く人や、公園のおじいさんや、おばあさんを見ても、幸せに生きているように見えない。僕もこうして年を重ねてゆくのかなと思うと、心に違和感がある。だったら生きていても、ムダな気がする。

(インターネット)
生きる意味、本当にみんな分かっているのだろうか?きっと見いだしたつもりになっていても本当は分からない。一生、いや永遠の課題なのかもしれ無い。

何故苦しくとも、生きねばならぬのか。如何して自殺を止めるのか。
苦悩する若者は、真実を求めている。

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