Thursday, February 16, 2006

前後左右に揺れて

誰しもは死に向かっている生き物だけど、周りの人に迷惑かけないように死にたいと、願うものだ。
獣もしに行く姿を見せぬよう群れから去って一人で死ぬ。
人間でも植物でも、病気でこの世に絶望する。
特に人間は、自然の摂理に反した死を考える。人生とは苦しめるものだ。
いくら楽しいことがあっても、最後に思い出になって悲しいことになるのだ。
例え恋をしても、傷つけ合う苦しさや、別れる悲しさが必ずやってくるだろう。
例え結婚しても、相手が浮気するかどうかの不信任感や、子供との付き合いが上手く行かないなど、生きるに困ることが沢山ある。

離婚率の増加や結婚率の低下は、人間の信頼性が失う事を示しているのではないか。
人間なんて醜いものだ
外見だけ、お金だけ、表面的なものばかり重視しすぎる。
ふと気が付き、手に握っているのは、疲れるだけの仕事と人間関係だけ。
人間は仕事のために生まれたわけではないし、傷付け合い殺し合うために出会うものでもないはず。
だけど、楽しく仕事をする人が少ないくて、憐れだ。
人間関係ってどうでもいいものなのに、雁字搦めに自縛する。
人間って恐ろしいもの。
誰か人と人との付き合いを複雑させたか?
自分が苦しめるのは自分だ!
嘘吐き、偽り、騙し、欺き、偽善と偽悪ばかりの、気持ち悪い世間。

女は金を求めるて体を売る。例え相手はオヤジであっても。
男は性を求めるて女を買う。例え相手は未成年であっても。
虚しい人生なのだ。

お金無しでは生きていけない。
欲しいものが多すぎて、お金は足りない。

病気に罹っても、病院に行っても、治らない病気だと絶望する。
人間に困る、社会に困る、お金に困る、病気に困る、生活に困る。
要すると人生に其のものに困窮し、疲れ果てた。

この疲れやすいのこの世にボロボロで生きているのが意味無い。
意味は何処を探し回っても無かったのだ。
生きていて何になるのかと考え始める。
生きてなくてもいいんじゃないかなという答えに気持ちが揺れる。

自分が生きてることで、結果的に誰かの助けになったり、幸せを与える事もあるのだろうけど。
逆に人に不幸を与えている可能性もある。

そんな言葉を聞いても気分は晴れない。
逆に疲れてしまう。
すると、いつ死んでもいいと、表現できないほどの気持ちがこみ上げてくる感覚。
落ちてゆく自分を包んでくれる、そんな何かを求めて今を生きる。
心の氷河期に耐えて過ごすばかりだろう。
温もりの光が射す、そんなきっかけや出来事や出会いがなければ。
心を失い、、世界を他の人に託すかのように、自殺の道を歩む者の一人になることだろう。

試行と錯誤は常に紙一重
わたしは何度も、気分を紛らわせるための手段として死を試行し、生を錯誤し、暗中を模索してきた。

今は吹っ切れた。居場所は、無い。
無いなら造れ!
探しても無駄、無いのだ、創らねば。
ゼロじゃない、マイナスの今、たったマイナス1を乗ずるだけで、無限のマイナスが悠久のプラスに変じる。

掛算をするのは自分
ゼロ割り算をすれば、内部コードは崩壊するが、何を掛けるか、決めるのは自分。
誰でもない。わたしだけだ。
此処は何処にも無いわたしだけの隠れ場所。
でっち上げた架空の場所。
逃げ込んだ妄想の街、人、建物。

だけどそれら全て、プラスに還るのはわたしだけの権限であり、誰の強制にも叱咤激励にも左右されない、わたしだけの領域。

創ったのだ、架空でも、妄想でも、狂気でも、この歪んだ世界をわたしが創ったのだ
ならば滅ぼすのもわたしの領分だ。

この自己に対する破壊衝動を、この架空現実をぶち壊す力に変えて、必ずわたし、幸せだと世界の東で叫んでみせる

自分を必ず連れて行く。
馬鹿にしたやつらを見返す所へ。
コケにしたやつらを嘲笑う所へ。

いま、戻れない道への門を開けた。
此処からは、半透明の膜で覆われたトンネルの中。
透けて見えても、誰とも直接触れ合えない。
孤独地獄。

地獄の炎を煉獄の焔とし、この身を焼き祓い清めて、行く。

生への産道を一人で抜けたなら、死への冥道も一人で抜けるさ

何度も振り向き、泣き、後悔し、悩み、間違え、座り込み、倒れ、手足を落とし、其れでもわたし、転がり続ける。

無間の闇か、夢幻の園か、何処だろうと、自分で選んで辿った道だ。

胸張って、地獄で申し開きしよう。
わたしはわたしを生きた、と。

人間はすべて罪ある者。
人生、この世が全てではない。其の先があるのだ。
死ねば肉体は腐って土に帰る。もともと土で作られた人類。。だから土に帰るのだ。
わたし達の魂は、もともと神の元から来た。でも今は罪があって神のもとへ帰ることができない。

有史以前より数多存在した、殉教者達を知っているか。
神は、そんな罪人だ我等のために、罪を清めるために、数知れぬ神ご自身の御子を十字架にかけた。
教会に行って献金したり、寺で奉仕したり、神社で祈ったり、其のようなことで、天国へ行くのではない。
天国は、ただ神の言葉を信じて、心の罪の赦しを受けた人が行くところ。
本当は、肉体が死んだとき、魂も死んで、罪人が行くべき地獄へ行くのだが、神は生き物を憐れみ、其の罪を清めるために、自らの子を殉死させた。
わたし達が受けるべき、罪人が受けるべき罰を、殉教者達が身代わりに受けたので、もう受ける罰はなくなった。

そう信じてもいいのだ。

わたし達が生まれてから死ぬまでの全ての罪は、殉職者達が己の血で清めてくれたと信じれば、もう心に罪はない。
自分を許してあげて。
神は、十字架の血によって、すべての罪を赦したと仰ったのだから。
そして神は、其の証しとして、ジーザスを、弥勒を、釈迦を、数限りない高徳の僧達を、未だ語り継ぐことを赦されている。
それを信じて心に罪がなくなり、義人となった人が天国へ行けるのだ。
もう罪を犯さなくていいのだ。生きとし生けるものは全て、他の生命を喰らい、循環している。

其の穢れた行為はわたし達のさだめ、この世に落とされた全生物の宿命。
受け入れよう。滅びさえも。
沢山の予言と科学的予測では、二〇一二年、滅日が訪れる。
地球は破滅への道を歩んでいる。
猛暑、台風、地震そして大寒波がやってくるだろう。
それは自然の摂理。
始まりがあれば終わりがやってくる。
限りある命を限られた時間に何をするか。
先祖からいただいたこの命。
わたしは自分の命が消えるとき、生まれたことを感謝して眠りたい。

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