前後左右に揺れて
誰しもは死に向かっている生き物だけど、周りの人に迷惑かけないように死にたいと、願うものだ。
獣もしに行く姿を見せぬよう群れから去って一人で死ぬ。
人間でも植物でも、病気でこの世に絶望する。
特に人間は、自然の摂理に反した死を考える。人生とは苦しめるものだ。
いくら楽しいことがあっても、最後に思い出になって悲しいことになるのだ。
例え恋をしても、傷つけ合う苦しさや、別れる悲しさが必ずやってくるだろう。
例え結婚しても、相手が浮気するかどうかの不信任感や、子供との付き合いが上手く行かないなど、生きるに困ることが沢山ある。
離婚率の増加や結婚率の低下は、人間の信頼性が失う事を示しているのではないか。
人間なんて醜いものだ。
外見だけ、お金だけ、表面的なものばかり重視しすぎる。
ふと気が付き、手に握っているのは、疲れるだけの仕事と人間関係だけ。
人間は仕事のために生まれたわけではないし、傷付け合い殺し合うために出会うものでもないはず。
だけど、楽しく仕事をする人が少ないくて、憐れだ。
人間関係ってどうでもいいものなのに、雁字搦めに自縛する。
人間って恐ろしいもの。
誰か人と人との付き合いを複雑させたか?
自分が苦しめるのは自分だ!
嘘吐き、偽り、騙し、欺き、偽善と偽悪ばかりの、気持ち悪い世間。
女は金を求めるて体を売る。例え相手はオヤジであっても。
男は性を求めるて女を買う。例え相手は未成年であっても。
虚しい人生なのだ。
お金無しでは生きていけない。
欲しいものが多すぎて、お金は足りない。
病気に罹っても、病院に行っても、治らない病気だと絶望する。
人間に困る、社会に困る、お金に困る、病気に困る、生活に困る。
要すると人生に其のものに困窮し、疲れ果てた。
この疲れやすいのこの世にボロボロで生きているのが意味無い。
意味は何処を探し回っても無かったのだ。
生きていて何になるのかと考え始める。
生きてなくてもいいんじゃないかなという答えに気持ちが揺れる。
自分が生きてることで、結果的に誰かの助けになったり、幸せを与える事もあるのだろうけど。
逆に人に不幸を与えている可能性もある。
そんな言葉を聞いても気分は晴れない。
逆に疲れてしまう。
すると、いつ死んでもいいと、表現できないほどの気持ちがこみ上げてくる感覚。
落ちてゆく自分を包んでくれる、そんな何かを求めて今を生きる。
心の氷河期に耐えて過ごすばかりだろう。
温もりの光が射す、そんなきっかけや出来事や出会いがなければ。
心を失い、、世界を他の人に託すかのように、自殺の道を歩む者の一人になることだろう。
試行と錯誤は常に紙一重。
わたしは何度も、気分を紛らわせるための手段として死を試行し、生を錯誤し、暗中を模索してきた。
今は吹っ切れた。居場所は、無い。
無いなら造れ!
探しても無駄、無いのだ、創らねば。
ゼロじゃない、マイナスの今、たったマイナス1を乗ずるだけで、無限のマイナスが悠久のプラスに変じる。
掛算をするのは自分。
ゼロ割り算をすれば、内部コードは崩壊するが、何を掛けるか、決めるのは自分。
誰でもない。わたしだけだ。
此処は何処にも無いわたしだけの隠れ場所。
でっち上げた架空の場所。
逃げ込んだ妄想の街、人、建物。
だけどそれら全て、プラスに還るのはわたしだけの権限であり、誰の強制にも叱咤激励にも左右されない、わたしだけの領域。
創ったのだ、架空でも、妄想でも、狂気でも、この歪んだ世界をわたしが創ったのだ。
ならば滅ぼすのもわたしの領分だ。
この自己に対する破壊衝動を、この架空現実をぶち壊す力に変えて、必ずわたし、幸せだと世界の東で叫んでみせる。
自分を必ず連れて行く。
馬鹿にしたやつらを見返す所へ。
コケにしたやつらを嘲笑う所へ。
いま、戻れない道への門を開けた。
此処からは、半透明の膜で覆われたトンネルの中。
透けて見えても、誰とも直接触れ合えない。
孤独地獄。
地獄の炎を煉獄の焔とし、この身を焼き祓い清めて、行く。
生への産道を一人で抜けたなら、死への冥道も一人で抜けるさ。
何度も振り向き、泣き、後悔し、悩み、間違え、座り込み、倒れ、手足を落とし、其れでもわたし、転がり続ける。
無間の闇か、夢幻の園か、何処だろうと、自分で選んで辿った道だ。
胸張って、地獄で申し開きしよう。
わたしはわたしを生きた、と。
人間はすべて罪ある者。
人生、この世が全てではない。其の先があるのだ。
死ねば肉体は腐って土に帰る。もともと土で作られた人類。。だから土に帰るのだ。
わたし達の魂は、もともと神の元から来た。でも今は罪があって神のもとへ帰ることができない。
有史以前より数多存在した、殉教者達を知っているか。
神は、そんな罪人だ我等のために、罪を清めるために、数知れぬ神ご自身の御子を十字架にかけた。
教会に行って献金したり、寺で奉仕したり、神社で祈ったり、其のようなことで、天国へ行くのではない。
天国は、ただ神の言葉を信じて、心の罪の赦しを受けた人が行くところ。
本当は、肉体が死んだとき、魂も死んで、罪人が行くべき地獄へ行くのだが、神は生き物を憐れみ、其の罪を清めるために、自らの子を殉死させた。
わたし達が受けるべき、罪人が受けるべき罰を、殉教者達が身代わりに受けたので、もう受ける罰はなくなった。
そう信じてもいいのだ。
わたし達が生まれてから死ぬまでの全ての罪は、殉職者達が己の血で清めてくれたと信じれば、もう心に罪はない。
自分を許してあげて。
神は、十字架の血によって、すべての罪を赦したと仰ったのだから。
そして神は、其の証しとして、ジーザスを、弥勒を、釈迦を、数限りない高徳の僧達を、未だ語り継ぐことを赦されている。
それを信じて心に罪がなくなり、義人となった人が天国へ行けるのだ。
もう罪を犯さなくていいのだ。生きとし生けるものは全て、他の生命を喰らい、循環している。
其の穢れた行為はわたし達のさだめ、この世に落とされた全生物の宿命。
受け入れよう。滅びさえも。
沢山の予言と科学的予測では、二〇一二年、滅日が訪れる。
地球は破滅への道を歩んでいる。
猛暑、台風、地震そして大寒波がやってくるだろう。
それは自然の摂理。
始まりがあれば終わりがやってくる。
限りある命を限られた時間に何をするか。
先祖からいただいたこの命。
わたしは自分の命が消えるとき、生まれたことを感謝して眠りたい。
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