Tuesday, February 21, 2006

柳寛順烈士の略歴

朝鮮のジャンヌ・ダルクと呼ばれる、柳寛順烈士は、一九〇二年十一月一七日、大韓民国は忠清南道(チュンチョンナムド)天安郡(チョナングン)龍頭里(ヨンドリ)で、父、柳重権(ユ、ジュングォン)、母、李少悌(イ、ソジュ)との間に生まれた。
彼女が生まれ育った時代といえば、一九一〇年に日帝による韓国併合が行われ、日本人憲兵や巡査、其れに高利貸しなどが地方にも大手を振って闊歩し、韓国の民衆を睥睨していた頃だ。

父、重権は、進歩的思想の持ち主で、民族的教育の必要性を痛感し、友人たちと民族学校の経営に乗り出したが、生徒が思うように集まらず、たちまち経営は行き詰まり、三〇〇円(当時)の借金はやがて三,〇〇〇円にも膨らんだ。

そして、重権の家には連日、日本人高利貸しが追い込みをかけ、彼を罵倒したのだ。

そのような時代背景と家庭の事情から、柳寛順烈士は、日本に好印象は持たなかったであろうことは、容易に想像できる。
彼女は、非常に活発で聡明な子供であり、やがて地方を巡回してきたキリスト教伝道団の女性宣教師アリス、H、シャープに見いだされ、給費を得てソウル(当時は京城)は梨花学堂(イファハクドン=現在の梨花女子大学)の普通科三年生に編入することになった。
柳寛順烈士一三歳の時である。

一九一九年三月三日、韓国の民衆は遂に立ち上がった。
人間としての尊厳と、民族の自立と、国家の独立をめざして日帝に立ち向かったのである。
有名な三.一(サミル)独立運動である。

柳寛順烈士は、同級生たちと小遣いを出し合い太極旗(韓国国旗)を用意してデモに参加しようとした。
しかしながら、其れは学校側によって禁止されてしまった。
日帝の総督府は、独立運動の多くの活動家が学生であったことから、各大学や学校に休校を命じた。

今も尚、「テーハン・トンニプ・マンセイ」と、いう叫びが聞こえる。

拉致被害者とは、戦前に、朝鮮から日本へ兎狩りで強制連行された、朝鮮の人達を指すのではないか。
日本人の拉致被害者は、確かに気の毒だが、朝鮮からすれば「仕返し」でしかない。

欧州でも、日朝間での拉致といえば、「ああ、日本人が朝鮮人にした虐待ね」と返ってくる。
わたしが思うに、日本国内で誘拐殺害された日本人被誘拐者と、北朝鮮人によって拉致された彼らと、何処が如何異なるのか。

日本国内で誘拐された人に対して、内閣総理大臣が何かしてくれたか?
国内で誘拐殺害された人達の遺族は、きっと歯痒いのではないか?

日本定住期間の短いわたしには、どうしても、ラチヒガイシャ達が優遇されているように見える。
衣食住全て世話して貰って、職も与えられ、本屋ドラマも売れ、何が被害者だ?
子供ができる程度の栄養は与えられていたはずだ。

全く、日本人のヒガイシャ意識には、うんざりする。

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