自殺についての誤解曲解
自殺について五つの誤解。
「死ぬ、死ぬという人は本当は自殺しない」
これはかなり広く信じられている誤解だ。しかし、自殺した人の八割から九割は実際に行動に及ぶ前に何らかのサインを他人に送ったり、自殺するという意思をはっきりと言葉に出して誰かに伝えているのだ。「救いを求める叫び」をきちんと受けとめられていなかったことが問題なのだ。
「自殺の危険度が高い人は死ぬ覚悟が確固としている」
実際に自殺の危険の高い人で百%覚悟が固まっていて周囲の人がそれに気が付いた時はもう遅いのだと信じられていた。
しかし実際には、自殺の前にまったく平静な人などはほとんどいない。
むしろ、自殺の危険の高い人は「生」と「死」の間で心が激しく動揺しているのが普通だ。絶望しきっていて死んでしまいたいという気持ちばかりではなく、生きたいという気持ちも同時に強いということだ。
わたしたちが本人の「生きたい」、「助けてほしい」という気持ちをどこまで汲み取れるかが自殺予防の鍵となり得るのだ。
「未遂に終わった人は死ぬつもりなどなかった」
この誤解は救急医療機関に勤める医療関係者にも見られのだ。本当に死ぬつもりがあったなら、確実な方法をとったはずだというのだ。
しかし実際には、自殺の危険の高い人でも、その心の中には「死にたい」という気持ちと「助けて欲しい」という気持ちの2つの相反する気持ちが揺れ動いているのであり、それが自殺行動にも反映されているのだ。
現実には、自殺未遂に及んだ人は、その後も同様の行動を繰り返して、結局は自殺によって生命を落としてしまう率が一般よりも高いという事実を忘れてはならない。
「自殺について話をすることは危険だ」
自殺を話題にしたからといって、自殺の考えを植え付けることにはなるまい。
自殺したいという絶望的な気持ちを、打ち明ける人と打ち明けられる人の間に、信頼関係が成り立っていて、救いを求める叫びを真剣に取り上げようとするならば、自殺について率直に語り合うほうが、自殺の危険を減らすことになるだろう。
また、自殺について言葉で表現する機会を与えられることで、絶望感に圧倒された気持ちに対して、ある程度距離を置いて冷静に見ることが可能になる。
「自殺は突然起き、予測は不可能である」
自殺が突然のように見える場合でも、実は自殺に至るまでには長い苦悩の道程があるのが普通だ。一見最近の事件が原因のように見えても、それは引き金になっただけに過ぎないことが多い。一般に、自殺の動機は深刻で長期にわたる場合が多い。
自殺についての賛否両論、讃美罵倒、数あるが、やはり、少なくとも誰か一人は、汽水したら傷付けてしまうだろう。
かかっていた医師の名誉、遺された家族や知人、死なれた現場に関与する人、自殺現場付近に暮らす人等、道徳的ではなく、間接的にダメージを受ける人が、必ずいる。
グラスをはずして本当の幸せを見直す。
この文明にどっぷり浸って暮らすのはサングラスを掛けて生きているようなもの生の光に触れていないのだ。
そのまま、いつか幸せは来ると信じるのは老いを忘れたおかしな生き方。
介護されればされるほど人は傷つけられ、介護される位なら死んだ方が益しと考える人は多く、物理的介護だけでは老人の自殺を防げない。
介護することが喜びであり生き甲斐である人もいのだが、「振り」だけの人が増え、介護ビジネスというのはビジネスに過ぎず、只のもうけ仕事ではないかの不安は拭えない。
その方がかえって気楽と割り切る人もいるが、果たしてどうだろうか。
心中にゴジラがいる。心の中からやってくる、自殺願望。
社会生活や人間関係の失敗であれこれ悩んだ末、自殺に追い込まれるのとは違い、身体の衰えや心疾患の胸の圧迫感が鬱な気質にさせ
生きるのが嫌になってきのだ。
抗鬱剤が脳に良く効くことは知られており、鬱的傾斜のある方は医療機関と相談されるのが先だ。
鬱的傾斜に多くは本人が気が付かないので周囲の理解が必要のようだ。
「精神論に過ぎない」と一喝されて来たが、精神をすり減らしながら成長経済を追い掛け、精神文化を捨てた享楽国は、自殺者が非常に多い。
健康を人生の目的とした享楽主義で生きるのは危険、と思うのはわたしばかりだろうか?
自然を観じる。
蛍を見てその神秘を語らない人はいないだろう。
自然はこうした不思議な感激に溢れている。
感激、喜びを身体中に満たすには、素直に自然に身を任せよう。
大自然はまだ、わたし達を見捨てていない。
自殺が主な原因で、男性の平均寿命が世界一から三位にダウンしたことが発表された。降下した原因は自殺の次に肺炎、ついで心疾患だ。
幸せな家庭を築いたつもりだが、子の親殺し,親の子殺しは続いており、幸せは一向にやって来ない、その上この仕打ちだ、
幸せの求め方がどこかおかしいと思わないか?
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