日本人の食の異常
第二次世界大戦中、父島の人肉食事件についてもこんな資料がある。
カニバリズムの動機は飢餓ではなかった
小笠原諸島の父島(兵力は陸軍九〇〇〇、海軍六〇〇〇)の、第一〇九師団長、立花芳夫中将事件と、大隊付軍医寺木忠少尉事件の二件は、陸軍旅団司令部、海軍特別根拠地隊司令部、海軍通信隊司令部が関与した、カニバリズム事件として知られている。
立花中将、的場末勇陸軍少佐(独立歩兵第三〇八大隊長)、父島方面特別根拠地隊司令官の森国造海軍中将、吉井静雄海軍大佐(通信隊司令)ら陸海軍将兵一四人(寺木軍医少尉を除く。寺木は別に起訴され、有期刑を科された)が、起訴された。
立花事件の判決要旨によると、一九四五年二月、末吉実郎海軍大尉が的場少佐から捕虜一人(恐らく米軍通信兵のマーション)を貰い受け、銃剣で刺殺した。
その翌日の夜、的場少佐が中心となり第三〇八大隊の将校らが宴会を開き、寺木軍医が遺体から取り出した米飛行士の肝臓と大腿部の
肉を食したという。
同じく同年二月、ヨーク(C.A.York)兵器係とダイ(Dye)通信兵の二人が、パラシュートで降下したところを捕え、立花中将の命令で、前者を独立歩兵第三〇七大隊で殺害した。
後者は通信隊に連行され、吉井大佐の命令で、林実海軍技術中尉と増谷真一海軍中尉が斬首した。
そして海軍の佐々木光慶大尉が後者の肝臓を摘出し、吉井大佐ら将校達が食べた。
二月二三日には、米海兵隊飛行士ヴォーン少尉(Ensign W.E.Vaughn)が捕虜となり、立花中将の依頼により、魚雷艇隊で斬首した後、吉井大佐は松下兼久海軍軍医大尉に肝臓摘出を命じ、大佐自身が此れを受け取り食膳に供したとされる。
やはり二月二三日頃に別の捕虜二人のうち、兵器係フレイザー(G.J.Frazier)を尋問中に殺害したが、人肉食が行なわれたかどうかは不明だ。
三月二六日には、師団参謀堀江芳孝少佐の英語の先生役を勤めていた、捕虜のホール海軍少尉(Ensign Hall)も、立花に連行され、斬首されてしまう。
遺体は的場少佐の命令で、寺木軍医により肝臓と腿肉が摘出され料理された後、第三〇八大隊の宴会で的場少佐、森中将らによって食された。
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