Tuesday, March 14, 2006

柳寛順の生涯

32、彼女は、デモの首謀者として日帝に逮捕された。
そうして西大門刑務所に留置され、連日、過酷な拷問を伴った取り調べを受ける。
「首謀者は誰だっ!」
「わたしだ!」
彼女は、どのような拷問にも屈しなかった。
一九二〇年四月の恩赦の時にも、逮捕された多くの学生が釈放されたのに、彼女だけは釈放されなかった。
自分の信念を曲げなかったからだ。

「お前達は私の父母を殺し、兄まで留置し、無実の同胞を殺している。その大罪はきっと神が裁いてくれるでしょう。私は大韓の人間で、日本人の裁判を受ける理由はない! お前達にわたしを裁く権利はない!」

拷問は来る日も来る日も続けられた。
やがて、栄養失調と劣悪な環境と度重なる拷問により、一九二〇年一〇月一二日、柳寛順烈士は息を引き取った。
最後の言葉は、日本は必ず滅びる、だった。

此れが、韓国のジャンヌ・ダルクと呼ばれる柳寛順の生涯。

ソウルでの万歳示威は、商店街がシャッターをおろして、学校は休校となる状態で、あらゆる市民が参加して、三月末まで続けられた。
その熱気はソウルだけのものではなかった。万歳運動は釜山、平壌は勿論全国の主要都市に広がっていった。
ソウルと同じく、地方都市での万歳示威も、主に学生と若い知識層を中心にしてすべての市民が積極的に参加し、民族の強い独立の意志を見せた。

リー将軍の言葉が甦る。

「戦争が此れ程悲惨であるのは結構なことだ。でなければ、我々は戦争を好きになってしまう」

古来の日本も欧州も、いくさ、が好きだった。今だって変わらない。只、法律に縛れらているから現実の殺人をためらうだけだ。
其の捌け口として、人間は映画、ドラマ、ゲームなどで、憂さを晴らしている。
人間は競うのが好きだ。
運動会、各種試験、営業成績。
そして勝ちたがる。
負ければ死にたがる。

戦時中は特攻隊員を軍神として崇め、遺族は泣くことさえ許されなかった。
戦争は戦争を呼ぶ。
終わりの無い螺旋が解けるのはいつだろうか。

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