サミル独立運動
三月一三日、柳寛順烈士は故郷に帰り、独立運動を行うことを目指した。
そして、地元の有力者に働きかけて説得し、四月一日(旧三月一日)、地元の並川市場(ピョンチョンシジャン)にて運動の狼煙を上げた。
柳寛順烈士、時に弱冠一六歳だった。
彼女は並列市場に集まった数千の群衆に対して、少女とは思えぬ堂々とした演説を行った。
群衆は、少女の訴えに感動した。
「大韓万歳!」
人々の独立に対する意気込みは、彼女の演説によって頂点に達した。
「憲兵分遣隊に行こう!」
誰からともなく、そのような声が沸き上がった!
人々は、日帝による圧制の象徴でもあった日本軍の憲兵隊に、平和的デモ行進を敢行した。
其れに対して憲兵隊は銃口をもって応えた。
世にいう並川事件だ。
憲兵隊の発砲により人々の悲鳴が上がり、あたり一面血の海となった。
人々はひるまなかった。
その最中、父、重権は憲兵隊の発砲により被弾、瀕死の重傷を負い、三日後死亡する。
急を聞きつけた妻の李少悌は、夫の恨みをはらすため、今度はデモ隊の先頭に立った。
だがその日の四時頃、夫の後を追うがごとく、彼女までもが憲兵隊に斬殺された。
目の前で一度に父母を失った一六歳の柳寛順烈士にとって過酷な一日だった。
島原の乱を想起させる出来事、否、悲劇だ。
わたしが十六差のころ、父に反発して一人暮らしを始めた年齢だ。
わたしは何と甘えた小娘か。
柳寛順は生来激しい気性だったのではないと思う。
我慢強く自立してはいても、本当は普通の平凡な女性になりたかった筈だ。
強い女なんていない。女は守られ甘やかされてこそ、優しく綺麗になれるものだ。
ジェンダーフリーが叫ばれるが、肉体的差異は変えられない。
力では男が勝つ。
だから柳寛順だって、優しく可愛く、生きたかったと思う。
時代の所為にするには大き過ぎる犠牲だ。
日本の女が強いといっても、今の子は甘えている。守られている。そして其れを自覚していない甘ったれだ。
無論、わたしも其の中の一人。
雑踏に埋もれて生きていく、死んでも何も残さない、つまらない存在。だけどこの世で唯一の存在。
数多の犠牲と歴史の上に胡坐をかいている。
しかし、其の轢死の中、必ず生まれ変わり死に変わり、犠牲者の一人であったと信じる。
生まれたというだけで、生きる価値と意味はあるのだ。
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