Wednesday, February 15, 2006

テクノロジーは幸福をもたらすか~アメリカンドリーム

米国のロマンチスト???より。
わたしが大学時代を過ごした懐かしのコネティカットについて。

ゴールドラッシュの一八五〇年代初め、東部のコネティカット州グリニッチに住んでいたとする。

兄は数年前に家を出て、幸運を求めてカリフォルニア州に金鉱掘りに行った。
全てを賭けて西へ向かった大多数の人々と同様に、兄はすっからかんになった。

身動きが取れない兄は、サンフランシスコの湾岸地区にある、安酒場で働き、無謀な夢を抱く百万長者志願者達にスチームビール(高温で発酵させて作るカリフォルニアの伝統的なビール)を注いでいる。

羽根ペンを手に取り、羊皮紙、或いは、通常の紙も出回ってはいるが、木材パルプが混じっているでこぼこの紙、に兄宛ての手紙を書く。

ポニーを乗り継ぐ速達便はまだ存在しないし(最初の便がミズーリ州セントジョーゼフを出発したのは一八六〇年四月なのだ)、電報が実用的になるのは一八六一年の後半だ。

兄宛の手紙は、当時の普通の手段、つまり、南米大陸南端のホーン岬を廻る帆船によって配達される。

コネチカット州ミスティック港を出た船は、途中で荒海に飲まれたり、ホーン岬に近いフエゴ島の沖で沈没したりしなければ、約三ヵ月でやっとこさサンフランシスコ港に辿り着く。
此れが当時の最先端の技術だ。

現代なら、グリニッチの自宅から電子メールをさっと送ることができる。
西の果てでバーテンダーをやっている兄は、其の日最後の根無し草の客にカクテルを作る数分の間に、メールを読める。
或いは、留守番電話にメッセージを残してもいい。
兄弟でインスタントメッセージを使っているなら、ほぼリアルタイムでチャットするのも結構だ。

要するに、こうした手段はどれも、十九世紀の帆船を使うよりは優れてはいる。
兄が恋しくなった、まさに其の時に、連絡が取れるのは、ある面では素晴らしいと言える。

しかし、そこが問題なのだ、ロマンチストは主張する。

かつては牧歌的だった生活に乱入してきたテクノロジーによって、相手に対する期待は途方もないレベルまで上がってしまった

以前はのんびり屋だった人も、今ではせっかちで怒りっぽくなった。

欲求が即座に満たされないとイライラする
そして、現代は世界中が不機嫌になっている。

尊敬する友人は、苛烈なビジネスの世界でさえ、手紙の到着には数日かかるのが普通だった時代を思い出せる年齢の人間だ。

留守番電話がなかった頃も、彼は憶えている。
先方が受話器を取るまで、ダイヤル式の電話機で電話をかけ続けなければいけなかった。
そして其れによって、そもそも電話をかける必要があったのかを改めて考えるという、意図しない恩恵も得られた

テクノロジーによって従来の十倍速く仕事ができるからといって、そうすべきだということにはならない。

身体はそのストレスに、一時的には耐えられるかも知れないが、精神商業主義社会の回し車の中でじたばたと走り続けるようにはできていない

こんな話をすると、企業側の人間には嫌われそうだ。
被雇用者から、吸いとれば吸いとるほど、経費は下がり利幅は大きくなるのだから。
何といっても、利益こそ神なのだ。
しかたがない、跪こう。
ってか、わたしはもう既に拝み倒れている。

しかし、企業にとっては善でも、人間にとって善だとは限らない。
例えどれだけ不浄の金が行く手にもたらされたとしても。

芸術家や思想家の犠牲のもとに商人が大きな勢力を持ったとき文明は間違いなく急激に衰退した

このとき、「自由、平等、友愛」というフランス革命の標語は、「自分の分はとったぞ、後も他も知ったことか」に道を譲った。

こんな姿勢は、十八世紀の啓蒙思想家、ボルテールの時代にさえ既に存在していた。
其の挙句が、貴族階級の不幸な末路なのだ。

大局的に見ると、今は亡き思想家達、ジャン=ジャック・ルソー、H・D・ソロー、ジェームズ・ミル等等は、米マイクロソフト社のビル・ゲイツ氏、米アップルコンピュータ社のスティーブ・ジョブズ氏、米オラクル社のラリー・エリソン氏といった、今を生きる経営者達よりずっと、人々の幸福を考えていた

わたしにとっては、クビにされそうな暴言だな。

だが、株式市場中心の資本主義が今日の法定貨幣になり、此れを大量消費主義が支え、テクノロジーが大いなる担い手になっている。

テクノロジーは仕事を楽にするのだから恩恵をもたらしてくれるのだろうか?

戯言だ、本業にしているわたしでさえ思う。

テクノロジーがもたらす安楽というのは幻想にすぎない。
皆、テクノロジーの罠に嵌っている。
テクノロジーの所為で、以前は必要ですらなかったものに支配され、いつの間にか其れ無しでは生きられなくなってしまっている。

そういったものを手に入れる金を稼ごうとして、狭い仕切りの中で朽ちてゆくのだ。
本来なら、緑の野を散策したり、愛しい人を口説いたり、歌を作ったりすべきはずの時間に。
と、彼は憤る。

夢想家の戯言だと、冷笑するだろうか。
そうして、利口な人はこつこつ働いて、命を擦り減らしながら、蓄えてゆくのだ。
だが、一体、何を

周りを見れば、社会から人間性が毎日少しずつ失われている

街中、公共の場での人の営みが、テクノロジーによって消されてゆく
チャットルーム、電子メール、インスタント・メッセージといったものはどれも、技術的には、コミュニケーションの一種だ。

しかし、此れらのコミュニケーション技術が、隣人同士のお喋り、バーでの雑談、友人との一寸とした散歩に取って代わるならば、こうした事態は「先進的な」社会に属する人々の間で益々広まっているが、人間同士の有意義な触れ合いは失われてしまう
簡便さでは埋め合わせがきかない

街では別の問題も広がっている。

以前は地元の書店で本を買っていたが、今では米アマゾン・コム社に代金を払っている。
おまけに、高利を取るクレジットカードで。

以前はガレージセールで処分していた不用品を、今ではオンライン案内広告のクレイグズリストに掲載している。

以前は精肉店、薬局、生花店で買っていた品はほぼ全て、ネット上で購入できるようになった。

勿論、とんでもなく便利で、人の手がかからない。
だが、小さな店が皆、商売が成り立たなくなって廃業してしまい、万人向けの製品だけを扱う紋切り型のチェーンストアに変わってしまったらどうなるだろう。

現代を善へか悪へか分からないが、切り開く企業の思いのままだ。

こんな世界に住みたいだろうか?
ふと、自問自答した。
わたしの心の病は、こうした便利さから生じたものではないか?
最近の日本人の学力低下も、だ。
少なくとも、現代人は、我慢を忘れてしまった

彼は今、サンフランシスコ湾の近くに住んでいる。
こういった問題をあれこれ考えると、帆船の帆布と、マストを支えるシュラウド、横静索を吹き抜ける風が恋しくなると言っていた。

彼との会話は、無論、留守電無しの電話オンリーだ。
彼はわたしが出るのひたすら待っていてくれた。
決してケータイへは掛けてこなかった。

そんな彼がとても好きだ。

0 Comments:

Post a Comment

<< Home