Sunday, June 22, 2008

自己愛性人格障害

境界例の重症のケース
 両親の目の前で死ぬんだと言い、窓から飛び降りようとした。母は頭をたたいて「いいかげんにしなさい」とB子を抱きしめた。しかし、引っかく、噛む、蹴るなどの暴力行為は両親から治療者にまでおよび、「なんで生きなきゃならないのか教えろ」と大声で怒鳴り続け、言語レベルではどうにもならないため、仕方なく Haloperidol 10mg を静注し、鎮静させた。

だれか私を見捨ててください
  Ver 1.0 1999/06/11
「我より入らんとする者は、すべての希望を捨てよ。我は地獄に至る門である」  ―― ダンテ 「神曲」


 誰でも見捨てられるのは嫌なものです。特に境界例の人は、見捨てられる不安や恐怖感が人一倍強いので、必死になって見捨てられることを避けようとしま す。しかし、そういう行為とは正反対に、完全に見捨てられてしまうことで、妙な安らぎを覚えることもあります。その極限の安らぎを求めて、自分で自分を絶 望的な状況に追いやることもあります。

 これは、親から刷り込まれた命題によるものと思われます。見捨てられた、絶望的な役割を引き受けることでしか、受け入れてもらえなかった、という状況に よって刷り込まれたものです。絶望しきってしまえば、それ以上絶望する心配はありませんので、妙な安らぎを覚えます。しかし、この安らぎというのは、心が 凍りつくことによって得られたものです。見捨てられる恐怖感に脅えて不安定だった心が、心が凍てついて固まってしまうことによって獲得された安定なので す。中途半端な夢や希望が、目の前にチラチラしていたりすると崩れてしまいます。すがりつく物が何も無いからこそ得られる安定なのです。地獄を求め、絶望 を求め、その修羅場の果てに得られた心の安らぎなのです。

 手首を切りつけ、白い腕を伝ってだらだらと流れ落ちる赤い血を眺めるといった自傷行為も、ある種の安らぎをもたらします。周囲の人がそれを見つけて驚 き、あわてふためいて応急処置をしたり、救急車を呼ぶために電話で大声を上げていたりするのを聞いていてると、心が枯れ果てたような安らぎを覚えたりしま す。周囲の人の叫び声が、凍てついた心を心を確かなものにしてくれます。

「リストカット、つまり橈骨動脈のあたりを切断することは自殺の方法の一つとして古くからあり、決して新しい問題行動ではない。しかし、こういった方法は一瞬のうちに致死に至ることがないために、擬似的な行為として行なわれることが多い」

「リストカットは周囲を驚かせ、関心を自分に引き寄せる効果がある。しかも疼痛がある種の快感やエクスタシーをもたらし、自己愛を満足させる行為である。 また、リストカットは幼児的な甘えやわがままを受け止めてくれる対象を喪失して孤立化する事態において起こると考えられる」

  ―― 「子どもの対象喪失」 森省二

 凍てついた心というのは、どこまで本当なのだろうか。人はどこまで絶望することが出来るのだろうか。鬱病や分裂病ならいざ知らず、そうでないのなら、完 全に絶望しきることは、希望を持つことと同じくらいに難しいのかもしれない。特に境界例に見られるリストカットのような場合は、周囲の人を驚かせ、自分の 抱えている問題に巻き込むことを目的としている。しかし、本人にしてみれば、自殺未遂が演技だなどと言われるのはたまったものではないだろう。そんなこと を言う人は、冷酷で残酷な人に見えることだろう。だが、その絶望に打ちひしがれ、凍てついてしまった心の背後には、ある種の計算が潜んでいる。この二重構 造に本人は気づいていない。指摘しても、理解するはずもない。周囲の人も見抜けずに振り回される。見抜いていても、万が一間違って死んでしまうこともある ので、やはり、ある程度は振り回されることになる。このような場合は、とりあえず患者との信頼関係を作る必要がある。患者に対しては、見捨てられていない こと、そして、今後も見捨てられる心配がないことを保証してやる必要がある。

 リストカットは、見捨てられた自分を演出するには効果満点である。床に垂れ落ちる赤い血を眺め、絶望という自己陶酔に浸ることが出来る。自分を痛めつけ た満足感に浸ることも出来る。束の間の「絶望の安らぎ」を得ることが出来る。そして、リストカットは精神的な行き詰まりを解決する手段として、その後も繰 り返されることになる。

 親が完全に見捨ててくれないこともある。はっきりとわかる形で見捨ててくれればあきらめもつくものを、なかなかそうはならなかったりする。ちぐはぐな対 応で、子どもを、付かず離れずの状態に留めようとする。見捨てられ不安を抱き続けるような状況に留めようとする。そうすると、子どもの方も、助けてくれる はずのない人に執着することになる。親への幻想が捨てきれず、かなうはずのない希望を抱き続けたりする。このあきらめの付かない状況を救ってくれるのが、 絶望である。思い通りにならなず、フラストレーションが極限まで高まって行くと、自ら「絶望」に脱出口を求める。絶望的な状況を作り出すことで、どっち付 かずの状態に見切りをつけようとする。思うように絶望に浸ることができないときは、絶望を演出してくれる小説などを読んで、絶望に浸ったりする。

 こういった絶望のナルシズムは、見捨てられる恐怖への防衛となる。最初から希望を持たなければ絶望することもない。絶望してしまえば、それ以上絶望する ことはない。希望を持つということは、見捨てられる恐怖と向き合うことになる。だから、心を凍りつかせることで、問題を回避しているのだ。しかし、心の底 には、甘えたい気持ちや、かまってもらいたいという気持ちや、あるいは抱き締めてもらいたいという気持ち、そう言ったあきらめきれない未熟な未練が残って いたりする。絶望は、その人に大人びた風貌を与えるかもしれないが、心の底に潜んでいるのは、切り捨てたくても切り捨てることの出来ない、愛情への未熟な 未練だったりする。だから、絶望に浸ることによって安定していても、愛情らしきものが目の前に現れたりすると、とたんにボロボロになったりする。未解決の まま眠っていた問題が一気に噴き出してくる。この状態は、眠っていた問題を発見するにはもってこいである。防衛機制によって幾重にも覆い隠されいたものが 姿を現すからだ。そこからは先は、絶望が自己中心的な甘えの裏返しであることに気付くまで、長い長い自己分析の道のりが待っている。何に対して絶望してい るのか、本当は何を望んでいるのか、そう言ったことに気付くまで。

 私たちはいったいを何を分かってもらいたいのでしょうか。それはおそらく、「本当の自分」であり、「ありのままの自分」なのでしょう。しかし、本当の自 分とは何なのかと言われると、自分でもさっぱり分かりません。「ありのままの自分」を分かってもらったり、励ましてもらったりした体験がないために、それ がどういうものなのか分からないのです。しかし、自分で分からなくても、分かってもらえない苦しさだけは、いやというほどよく分かるのです。そして、誰か に分かってもらおうとしては、傷付いて、あてもなくこの世をさまようことになるのです。

 人から見放されたからと言って、自分で自分を見放す必要は全くないのです。逆に人から見放されたときに必要なことは、自分で自分を支えて、自分で自分を 励ますことなのです。しかし、境界例の人はそうはならないのです。誰かに分かってもらえないきには、自分でも自分のことを分かろうとしなくなるのです。自 分で自分を支援する事が出来ないので、見捨てられた惨めさと敗北感に浸ってしまい、その泥沼の中で溺れてしまうのです。そして、誰も分かってくれないのな ら、誰にも理解できないような生き方をしてやる、と決心してしまうのです。たとえば、食べることを拒んで、すでにガリガリに痩せているというのに、さらに もっと痩せたいなどという、普通の人にはとうてい理解できないような事を考えたりするのです。あるいは、手首をカッターで切って血だらけになったりして、 普通の人から見れば、さっぱり分からないような行動をとったりするのです。なぜこんな行動をするのかと言えば、誰も分かってくれない事への怒りであり、当 てこすりなのです。すべての責任は、なにも分かってくれなかったお前たちにあるんだと言って、ボロボロになった自分を見せつけるのです。あるいは、ひとり きりになって、分かってもらえない寂しさに浸りながら、傷だらけの自分を見つめて、冷たく笑ったりするのです。

 メンタルヘルスの世界に「自己実現」という言葉がありますが、この本当の意味は、自分の願望を実現するという意味ではないのです。自分の限界を知り、不 完全な自分を受け入れ、不完全な他人を受け入れ、不完全な現実を受け入れ、部分的な理解と、部分的な愛情の世界でも生きていけるようになるということなの です。理想的な自分になるということではなくて、範囲と限界の中で生きている不完全な自分を受け入れて、ありのままの現実的な自分になるということなので す。

 かつては自分を過小評価して、自分の存在を抹殺してしまおうとまで考えていたのですが、その反動として、今度は自己愛が大きく膨らんでくるので す。そして、人によっては、自分がかつて境界例であったにもかかわらず、これからは境界例の人をバカにするパターンを取る人もいるのです。自己愛が膨らん できた状態で、境界例の人たちを眺めてみますと、愛情に対するあまりの卑しさや、貪欲さが、妙に鼻についてくるのです。そして、ちょっとしたことで絶望し たり、自分の不幸をひけらかしたり、すぐに感情的になって破滅的な行動をとる人たちが、バカに見えてくるのです。自分自身も、以前はそういう状態であった にもかかわらず、そんなことは、すぐに遠い過去の出来事になってしまうのです。実際に読者の方からも、「いつまで境界例をやっているんですか。私なんかも うとっくに卒業しましたよ」というようなメールをいただくこともあるのです。しかし、なかには境界例から足を洗いきれずに、自己愛を補充するために、境界 例の人をパートナーにする人もいます。まだ残っている自分の心の影の部分を、パートナーに演じてもらうのです。

 このようにして自己愛が膨らんでくると、いろいろなパターンで人を見下したりするのですが、ここでは「人を見下してはいけません」というような、 無邪気な道徳の話をしているのではありません。たしかに、人を見下すということは、いろいろな問題を抱えてはいますが、これもひとつの前進なのです。歪ん だ状態ではありますが、今は守るべき自分というものが存在するようになったのです。以前は自分を投げていました。自分で自分を見捨てていました。しかし、 今は守るべき自分というものがあるのです。

 私たちは普段、あまり意識しなくても、人を見下すことで自分を守っている部分があるのです。自分よりも不幸な人を見て、口には出さなくても、ああ はなりたくないという思いが、現在の生活のレベルを維持していくための心の支えになっている部分があるのです。道徳的なきれい事ではなくて、これは生きて いくために必要な自己防衛でもあるのです。今までは、自分というものが無くて、自分が無いということにさえも気付かずに、自分と他人の境界が混乱したまま 生きてきました。しかし、人を見下すことで、歪んではいますが、自分のというものの輪郭が多少は描けるようになったのです。ですから、自己愛の膨張は、人 によっては、かなり行き過ぎてしまう面はあるものの、回復して行く過程で通らなければならない通過点のひとつであると考えることもできるのです。



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