Sunday, May 21, 2006

暴力

1、社会の役割

社会は外傷的事件をまず正確に認知・評価し、次に誰に責任があるかを確定し、其の責任を問わなければならない。
この二つは被害者の秩序感覚と正義感覚を回復させるのに欠かせない。

帰還兵の社会的認知について。
帰国する兵士は、自分たちが故国でどのような評価をされるのかに非常に敏感だ。自分たちの体験を忘れ去られる事を恐れ、認めてもらいたがる。が、どのような記念碑や祝典も彼らを満たす事はない。平和な故国では戦争の真実がセンチメンタルに歪められているからだ。

ベトナム戦争は、社会的に認められなかった戦争の最たる例だ。反戦感情を押さえるため、兵士を市民から隔離し、兵士間の連絡も取らせない政策が取られた結果、ベトナムに行った兵士たちは大きな傷を負い、帰国して公衆の批判と排斥に曝され、二度目の傷を負った。

ワシントンにあるベトナム戦争記念碑は、帰還兵の回復に最も貢献している公共のものだ。
戦争のヒロイズムを称える他の戦争記念碑と異なり、この碑は秘蹟の場となり、巡礼の場となった。

2、性的、家庭内暴力の社会的認知
市民生活に於いて、認知と修復の公的な場となるのは刑事裁判システムだ。が、しかし、性的暴力、家庭内暴力というケースでは立ち入り禁止、に近い状態だ。
強姦罪を構成する与件として。
加害者が非常に物理的な力、つまり暴力を行使した場合、この与件を満たす力は、通常、女性を恐怖に陥れるのに十分な力を、遥かに超えている
(事実に即していない。机上の空論
社会的に接近しがたい部類の女性を襲った場合、社会的関係が濃厚であれば許容される範囲も広くなる。

他人がレイプするとレイプだと認められるが、知人がレイプすると認められない。
レイプの犯人は知人、あるいは緊密な関係にある人間であるケースがほとんどだから、レイプの大部分は法的にレイプと認められない。
裁判が更なる外傷を引き起こす事がしばしばだ。
法体系はレイプ被害者にとって敵対的になっている.。

結果として、公的機関に通報したり告訴する割合は非常に低くく、レイプ被害者のための記念碑は存在しない。
          ↓
したがって、レイプ被害者の自己の再建は、療という仕事の場に求められなければならない.。
尤も、良く回復した人達というのは、個人の身に降りかかった悲劇という枠を越えて、自らの体験に何らかの意味を見出した人たちだ。
彼女達は、レイプ反対運動に参加し、ボランティアのカウンセラーを勤め、被害者の弁護を行い、法律改正のための活動をして、生きた記念碑になりつつある。

3、監禁状態
反復性外傷は、犠牲者が加害者の監視下にあって逃走できない被監禁者だ。場合に限って生じる。

婦女子が家庭内で監禁状態にある場合は外部の目には映らない。
家庭内監禁に於いては、被害者の逃走を防ぐ障壁は物理的なものではないが、極めて強力だ。

子供達や、一人で生きてゆけないために逃げ出すことが出来ない女性は、物理的な力と並んで経済的、社会的、心理的、法的従属によって、監禁状態に置かれることになる
監禁状態は加害者と被害者を長期間接触させ、特別なタイプの関係を作り出す。

加害者は見掛け上は正常であり、自分の暴君的行動が許容、感化、賛嘆されるような状況を選ぶ。其れがカモフラージュとなる。

加害者の最初の目的は、被害者の奴隷化だ。。ただ単に言うことをきくだけでは満足せず、自分の犯罪を正当化したいという心理的欲求があるらしい。
そして、加害者は被害者の肯定(尊敬・感謝・愛情の表明)を求める。
加害者の最終的な目的は、自発的な被害者を作り出すことらしい。

心理学的支配として、自分以外の人間の完全な心理的コントロールを確立する方法を用いる。
無力化と断絶化を組織的に用いて、心的外傷を繰り返し加えて痛めつける。
恐怖と孤立無援感を注入し、被害者の他者との関係に於ける自己を破砕する。

支配の過程に於ける恐怖とは?
暴力を用いる必要のない場合が多い。殺すぞ、痛めつけるぞ、という脅しの方がはるかに多く用いられる。

被害者本人でなく、身内などへの脅しを見せつけることにも効力がある。

規則性が無く、予見できない形で、暴力を爆発させたり、どうでもよい細かな規則を、気紛れに強制したりすると、恐怖は増大する。

被害者は、自分の生死が絶対の服従によって、加害者の歓心を買えるかどうかに掛かっていることを思い知る。

もう少しで殺されるはずだったが、最後の瞬間に免れた、と何度も思わせられて、加害者が命の恩人だ。という錯覚に陥ってしまう。

4、自立性の感覚を粉砕。
被害者の身体と其の働きを、細々と詮索した上で、此れを支配し、食事、睡眠、トイレ、服装などを監督し指示する。
→被害者に恥辱感を与え、士気を砕く。
女性の被害者に対しては、性的脅迫、性的暴行を身体の支配に用いる。

些細な恩恵の供与
加害者が一旦、被害者の身体を日々支配することを確立すると、些細な楽しみを気まぐれに与える方が、より効果的に被害者の心理的抵抗を空洞化する。
些細な楽しみ、食事を貰える、入浴させて貰える、優しい言葉等。

家庭内暴力においては被害者の逃亡が不可能ではないので、恩恵の供与という方法が洗練されている。
加害者は弁解や愛情の表現をし、悔い改めると約束するなどして、戻ってきて欲しいと説得し、被害者の心に訴える。この和解期、が被殴打者だ。女性の心理的抵抗を砕く決定的な一歩となる。

被害者の抵抗として、細々とした要求と恩恵を共に拒絶する。

極限的な抵抗としてのハンガー・ストライキ、つまり、監禁者が要求する以上の剥奪状態に自発的に身をゆだねるので、捕囚は自己の不可侵性と自己支配の感覚を再確認する。
宗教的断食の維持、ナチの強制収容所における、ユダヤの祭日の断食も然りだ。

5、コミュニケーションの遮断(孤立化)。
被害者を他の一切の情報源、物質的援助、感情的支持から遮断する。

家庭内暴力に於いては、尾行、盗聴、書簡の差し押さえ、電話の遮断、仕事を辞めるよう、友人、実家と縁を断つよう求める。
被害者を他の人々から孤立させるだけでなく、彼らとのつながりの内的イメージを破壊し、被害者の彼らへの愛着心を破壊する。
手紙、写真など、象徴的な意味が大きいものをなくさせようとする。

→被害者はささやかで象徴的な譲歩をしていると、自分に言い聞かせてしまう。
そうするうちに、他の人達との繋がりは、目に見えないほど、ゆっくりと破壊されてゆく。

6、被害者の抵抗。
問題が外部世界との繋がりを保つかどうかに掛かっているときは、小さな譲歩などあり得ず、外の世界とのコミュニケーションを執拗に維持する。

愛する人達のイメージを、意図的に心の中に甦らせようとする。

外部に繋がっている、物質的な印を残しておくために闘う。移行対象、シンボル的なものだ。

7、加害者への依存関係。
被害者は孤立してゆくにつれて、情報を得るためや自分の感情を生かしておくために益々加害者に依存的になる。

被害者は怖れ・脅えが酷いほど、許されている唯一の人間関係、加害者との関係にしがみつきたい誘惑に駆られる。

被害者はどうしても、其の内に、加害者の眼を通して世界を眺めるようになる。
人質と誘拐犯の愛着関係。解放後の人質が誘拐犯の大義を擁護し、獄中の犯人を援助することはよくある。

家庭内暴力に於いて、被殴打女性と加害男性の関係の根底には、独自の愛着関係がある。
女性は初め、相手の自分に対する所有への執着は、熱愛の証拠だと解釈する。
相手が次第に支配的になると、自分の行動を止めてしまう。
其れは怖いからだけでなく、相手が何から何まで世話してくれるからだ。

この場合情緒的依存が生まれてくるのに抵抗するためには、自分の置かれている状況を、加害者の信条体系とは積極的に相違させた、新たな独立した眼で見なければならない。

感情移入を作り出さないようにするだけでは足りず、既に感じている好意を抑圧しなければならない。

もう一つ犠牲をしてくれたら暴力を止める、と説得されても受け入れてはならない。
大多数の女性は、人間関係を維持する自分の度量の広さに、自尊心と自己評価とを置いているから、殴打加害者は被害者の其の価値観に訴えることによって、相手を罠に陥れてしまう。
被殴打女性が折角虐待者から逃れようとしていたのに、戻ってしまうことがあるのはこのためだ。

8、全面降伏

被害者の心理的支配の最終段階は、被害者が自らの倫理的原則を自らの手で侵犯し、自らの基本的な人間的繋がりを、裏切るようにさせて初めて完了する。
→屈服した被害者は自己を嫌悪し憎悪するようになる。

家庭内暴力に於いては、倫理原則の侵犯。
つまり、屈辱的な性行動を強要される、夫のしている不正に協力させられる、など。
人間関係への裏切り、子供達への虐待に加担するなど。

全面降伏への二段階として。
第一段階は、被害者が生き延びるために己の内的自立、世界観、道徳律、他者への繋がりを犠牲にするものだった。

感情、思考、イニシアティヴ、判断を遮断する.。
人間でない生命形態に退化したと感じる。(植物など)
この段階は可逆的であり、屈従期・積極的抵抗期はしばしば交代する。

第二段階(最終段階)では生きる意志を失う。
絶対的受身の態度になる。(食べ物を探そうとも暖をとろうともせず、殴られるのを避けようともしない。生きながらの死者。(ナチの絶滅収容所))

自殺を考えることは、生きる意志を失うこととは違う.。
極限状況に於いては、自殺への意志は抵抗と自尊の証であり、被害者の内的支配感を保存してくれる。

ハンガー・ストライキの場合と同じく、捕囚はいつでも死ぬぞという姿勢によって、己の不屈さを確認する。

9、児童虐待
ダブルシンクについて。
被虐待児は虐待を受けているという現実を否定する。
其の手段として、解離状態を誘発する。

被虐待児が抱える発達論的、実存的課題。
被虐待児の発達論的課題は深刻なジレンマに陥る。

発達論的課題。
ケアテーカー(両親)に対する一次的愛着の形成。
他者との関係における基本的信頼と安全の感覚の育成。
身体の自己制御の自在性を発達させる。
自分を慰める能力を発達させる。
イニシアティヴをとる能力を育てる。
他者と親密な関係を育てる能力を育てる。

此れ等のことを虐待的環境、つまり恐怖、孤立無援、虐待者への服従のもとで達成するのは困難だ。
被虐待児の実存的課題もまた、ジレンマに陥る.。

実存的課題として。
希望と意味を日々持ち続ける。
両親への信頼と誠実とを保ち続ける。

被虐待児は両親への信頼と誠実を保つために、両親は間違っているという明白な結論を、現実離れした手段によって、撤回しなければならなくなる。

被虐待児は、両親が虐待者、或いは自分に無関心だ。
にも拘らず、両親に対して、飽くまで一次的愛着を保とうとし、其のために様々な心理的防衛手段に訴える。

虐待を意識と記憶から隔てて、実際にはなかったことにすることもある。
虐待を極小化、合理化し、何が起こっても其れは虐待ではなかったことにする、つまり、現実を実際に変えることはできないので、心の中で変えてしまうのだ。

10、解離状態、トランス状態とは?

被虐待児は虐待されているという事実を自分自身からも隠蔽しようとする。
其のために様々な種類の解離反応を用いることもある。
被虐待児の解離状態を誘発する能力は、至芸の域に達する。

烈しい疼痛を無視する。
記憶を複雑な健忘の襞に隠す。
時間、場所、感覚を変える。
幻覚あるいは憑依状態を誘発する。

此れらの意識の変化の多くは自動的となり、自分の意志とは無関係に起こるようになる。

解離から多重人格へ。
ごく幼少期に長期間虐待を受けたような場合には、被虐待児は複数の其れぞれ別個の断片的人格を形成し、其れが人格構造の基本原理となってしまう.。

別個の人格とは、其れぞれが、独立した 名前、心の働き、記憶を持つ。
もう一人の自分、虐待を知っている自分と、何も知らない自分とをだ。

虐待と其れへの対処戦略をともに通常意識の外に置くことによって、虐待には有効に対処できるようになる。

11、二重の自己(ダブル・セルフ)
被虐待児は両親の虐待を正当化するために自分を悪い子、とみなす。其の一方で、両親の歓心を買おうと表面上はいい子、を演じ続ける.。

自己非難 自分の所為、悪い子、と言う規定。
被虐待児の全員が解離能力を持っている訳ではなく、また解離能力を持っていても、いつでもこの能力に頼れる訳ではない。

虐待という現実が回避不可能になると、被虐待児は虐待を正当化しなければならなくなる。
→自分は生まれつき悪い子で、其れが虐待の原因なのだと結論する。
このように考えることで、意味と希望と力の感覚を保全できる。
両親はいい親だ、自分が何とか努力していい子になったら虐待はなくなる、と。

幼年期に於いては自己があらゆる事件の引照基準点だ。
なので自己非難は、幼年時代の正常な思考形式と両立する。

自己非難の強化。
両親も虐待を子どもの所為にする。
何かよくないことがあればみな子どもの所為にしたり、生まれる前から愛されないよう決まっていたという、家族伝説を作りもする。

12、被虐待児は葛藤解決の言語的・社交的スキルを欠いていることがよくあり、また相手の敵意を予期してしまうために、怒りっぽく攻撃的だ。
其の攻撃性を虐待者に向けるのは危険なので他の人に向けてしまう。
→被虐待児は自分の心は悪いのだという確信を持つ。

被虐待状況が生む僅かな快楽も、虐待の責任が自分にあることの証明となる。性的快感、虐待者に注目される喜び、何か得るため虐待者との取引に応じる等。

被虐待児の悪い子、意識は、他の人への虐待に共謀するように強要される場合には複雑微妙に加重される。被虐待児は共謀に抵抗するが、誰かを犠牲にして自分は虐待を逃れる手段を見つけた場合、其れを選んでしまう。

組織による性的搾取においては、入門儀式として必ず他の子どもへの虐待に加担させる。

汚れた、非人間という自己規定。
こうして虐待者の罪の責任を引き受けてしまった被虐待児は、自分のことを嫌悪し、自分を人間でない生物だという。
例えば魔女、吸血鬼、インバイ、犬、ドブネズミ、ヘびだ。自分の内的感覚を語るのに、排泄物や汚水のイメージを使う。

此れら、自分=悪という自己規定によって、被虐待児は両親への一次的愛着を維持する。此れによって両親との関係を保てたのだから、この自己規定は被虐待児が成人となり虐待が終わった後にも続き、人格構造の不変の部分となってしまう。

13、ニセモノの自己、いい子

被虐待児は、両親から好意の目で見られたいという渇望のために、しばしば完璧にいい子、を演じる。求められることは何でもこなそうとし、学業や仕事にはげむ。

しかし被虐待児は、自分の演じる自己は真の自己ではなくニセの自己だという感覚を持つ。其のため、いい子、の結果として成人になった後に社会的な成功を収めたとしても、其れは自己の達成とはならない。

もし誰かに褒められることがあっても、真の自己(悪い子、)のことは誰も分かってくれないとの確信を持つだけだ。
そして真の自己を知られたら、悪者として排斥されるだろうと考える。

肯定的な自己規定を得る被虐待児。
被虐待児が自分への虐待を宗教的に理解した場合、比較的肯定的な自己規定を得ることがある。しかし其の陰には極度の自己犠牲がある.。
例:近親姦において自分をいけにえに選ばれた処女だ。と解釈

自己の内的イメージの統合の失敗。
低められた自己(両親への一次的愛着のために規定された自己 悪い子、)
高められた自己(演じられたニセの自己 いい子、)

この矛盾した二つの自己規定は統合不可能だ。。被虐待児は、"長所と短所をほどほどに持つひとまとまりの自己イメージ"を育てることが出来ず、硬直的で誇張されて分裂した自己イメージを持ち続ける

極端な場合には、このような自己イメージは解離されたもう一人の自分、人格の巣となる。

14、他者の内的イメージの統合の失敗

被虐待児は、両親への信頼と忠誠を保とうという絶望的な試みの中で、少なくとも父母どちらかのイメージを極めて理想化する。虐待する親の方を理想化することが多く、この場合自分の怒りをすべて虐待しない方の親に向ける。

虐待者の方も子どものこの理想化を促進しようとして、家族みんなに自分の偏執的・誇大的な信条体系を叩き込むことがある。そして理想化された自分のイメージを植え付ける。

しかし被虐待児は、理想化された両親像と、虐待する(其れを座視する)現実の両親とを統合できない。
→被虐待児が抱く両親の内的イメージは自己の其れと同様に矛盾に満ち、分裂したものとなる。

自立性の感覚の欠如

正常な発達においては信頼でき、安心して依存できるケアテーカー(両親)、という内的イメージをつくることによって、安全確実な自己の自立性の感覚を得る。しかし被虐待児の場合其れは阻害される。
因って、被虐待児は外部からの慰めや快感に依存的になり、誰かまわず依存する相手を探し求める。
初対面の人に直ぐにも愛着してしまったり、虐待者になったり、両親にしつこくしがみついたりする。

15、人格分裂

自己の内的イメージの分裂は、アイデンティティを一つに統合することを妨げる。
他者の内的イメージの分裂は、人間関係の中で自分が独立しているという安心できる感覚が育つのを妨げる。

このように意識が分裂すれば、知覚、記憶、感情状態、身体的経験の正常な統合もできなくなる。
そして、被虐待児の人格構造の基本原理は、人格の分裂ということになる。

被虐待児の人格分裂はフロイトやジャネの時代からずっと観察されてきており、さまざまに形容されてきた。アトム化、、精神断片化作戦など。

16、身体への攻撃

児童虐待という状況下では子どもの心に意識の歪み、個人化、自己規定の歪み、が起こる。此れは希望と人間関係を保存する目的のためだが、適応の課題を果たすのに十分なものとはなっていない.。

一、身体の生理的コントロールの破綻。
生物学的基本機能、睡眠、覚醒、食事、排泄を、安全で整合的な心地よいやり方で、制御することができない。
睡眠により、愛情の注がれる心地良いとき、ではなく恐怖のとき、だ。
食事も、心地よい楽しみのとき、ではなく恐怖、嘔吐、暴力のとき、になる。

混沌化または過剰なコントロール。
睡眠障害、摂食障害、胃腸に関する愁訴が挙げられる。

二、 感情のコントロールの破綻。
恐怖・怒り・悲しみは、一つに融合し、ディスフォリア(混乱、昂奮、焦ら立ち、空虚感、完全なる孤立感の入り混じった状態)に陥り、居ても立ってもいられないイライラ、自分が何が何だか分からない、と言った破綻が起こる。

17、慢性被虐待児の感情スペクトル
極限は、恐慌、狂乱、絶望を誘発し、不安とディスフォリア、つまり、落ち着いていられない、状態に陥る。

空無化恐慌、annihilation panic。
解離が行き過ぎて他の人々との繋がりが完全に切れた感じになること。見捨てるぞという脅しに対して反応して起こる。
此れは通常の自己慰籍法では消滅させられないので、病的な自己慰籍行為に及ぶことになる。

病的自己慰籍行為、自己破壊。
自傷行為、浣腸、嘔吐、脅迫的性行動、脅迫的冒険(危険に身を曝す)、精神変化薬の使用などだ。

自律神経系の超限的興奮を起こすことで、感情状態を一時的に変化させることができる。此れを利用して慢性的ディスフォリアを根絶し、上機嫌と幸福の状態をかきたてようとする。喩え其れが一時的なものであったとしても、である。

自傷行為
病的慰籍行為の中で最も人目を惹くもの。
他人を操作するために行うのではない。
思春期以前から長年こっそり行われている。
自殺の真似ではない。自己保存行為だ。
深い解離状態から自傷行為へ、そして安堵感に浸る。
身体の痛みの方が心の痛みよりずっとましなのでこの置き換えが行われる。

三つの適応形態。
解離的防衛機制の開発、断片的自己規定の発達、感情状態の病的制御。
此れらは虐待的環境の中で子どもが生き延びるのに貢献するが、同時に虐待の隠蔽にも貢献する。

18、子どもが成人すると

成人になれば、という被虐待児の希望はあるが、しかし人格途上の被害は、成人生活への適応を妨げる.。
リチャード・ローズの表現反復は被虐待児の語らざる言語だ。
被害経験者の親密関係のパターンとして。
理想的人物への恋着から、現実の幻滅、そして過去の体験が蘇る。
強烈な不安、抑鬱、怒りという、極端な対人的不安定に揺さぶられることになる。

成人になった被虐待児の対人的脆弱性。
此れは、被虐待の再演の準備 であり、被虐待児は成人になって、再び虐待を受ける確率が高い。

被幼児虐待者の証言。
まるで自己実現性予言でした。
暴力を予期しつつ人生をスタートさせ、幼い時に暴力と愛とをイクォールとみなすとしましょう。
わたしはレイプを六回受けました。
わたしは家出をしたり、ヒッチハイクをしたり、したたかに酒を煽ったりしました。
そういうこと全部が組み合わさって、わたしは目につきやすく射止めやすい標的になったのです。
全く酷いものでした。
おかしいのは、わたしははじめレイピスト達は、わたしを殺すに違いないと思ったのですが、其れはわたしを生かしておいたら、奴らはどうして罪を逃れられるだろうかと思ったからです。
とうとう分かりました。
奴らには、全然心配することなどなかったのです。
わたしのほうから、してくれ、と頼んだと言うことになって、全くお咎めなしなんですね、
しかし、彼女らが被虐待に快を求めるようになっているというのは誤解だ。
むしろ自分を低めたかった。
わたしは自分に身体的虐待を加えるのが好きです。
其れをさせるためにお金を払うのも、好きだからです。
しかし、わたしは自分で其れを支配し制御していたいのです。
一時期、わたしが酔っぱらっていた時期、わたしはバーに行っては、目についた一番汚れた、オエッとなるような男を拾ってセックスをしました。
自分を低めたかったのです。
今はもうそんなことはしていませんけれど。

多いのは虐待者にノー、といえない受け身性だ。
虐待者をケアする側にまわることさえある
解離によって危険を告げる社会的なキューを認知しにくくなる
児童期虐待経験者は、
少数なら、虐待者にまわる。(加害者に転化する者も少数はある)
多数なら、自己破壊に傾く。
自分の子を虐待することを恐れて心を砕く者の方が多い。
外傷はジェンダー・ステロタイプを増幅する(特に男子)。
児童期の防衛機制が成人の対人関係を妨げる
特に二重思考、二重自己がそうだ。

この防衛機制が崩れると、人格の断片化が顕在化する。
離婚、子どもの誕生、親の病気や死が其のきっかけとなりやすい。
この解体が起こる時はありとあらゆる精神科的障害そっくりの症状をとりうる。

19、新しい診断名を提案する、精神科患者としての被害経験者。

虐待経験者の多彩な症状、間違った診断が、問題になる。
精神科を訪れる被害経験者は極一部だ。
しかし精神科患者の多くは児童虐待経験者だ。
入院患者の五十~六十%、外来患者の四十~六十%、精神科救急部の患者の七十%がそうだ。

児童期虐待経験者の症状は実に多彩だ。
身体化、抑鬱、一般的不安、恐怖症的不安、対人関係過敏性、パラノイア及びサイコチシズム、不眠、性的機能障害、解離、憤怒、自殺傾向、自傷、薬物嗜癖、アルコール症。
このリストは幾らでも長くできる。
虐待経験者が援助を求めてくるのは、其の多数の症状のためか、対人関係の困難のためだ。

患者も治療者も、現在訴えている症状と、慢性外傷の既往との繋がりに気付かない。
虐待経験者も、其れ以外の外傷受傷者も、しばしば誤診され、間違った治療、バラバラで中途半端な治療をされている。
そして、ケア提供者によってもう一度被害を受けることになりやすい。

20、虐待経験者に特につけられやすい病名は、身体化障害、境界性人格障害、多重人格障害だ。

此れらの診断を受けた患者に、ケア提供者はマイナスイメージを抱く。
信憑性が怪しい、人を振り回す、仮病を使う、嫌な奴など。
最も酷いのが境界性人格障害で、この言葉は高級な学問の装いの下で人を中傷する言葉に過ぎない。
虐待経験者は、しばしばこの三つの障害を重複して診断されたり、此れ以外に追加病名をたくさん与えられたりする。

此れら三つの障害と、解離、対人関係、自己イメージについて。
多重人格障害の人は非常な解離能力をもっていて、分裂病症状と誤認されかねない。境界性人格障害の患者も高度の解離症状があり、身体化障害の患者には高度の被催眠性と心因性健忘とがある。

此れら三つの障害は、親密関係に於いて特有の困難をもつ。
文献がもっとも多いのは境界性人格障害だ。
境界性人格障害の人は、独りでいることへの耐性が極めて低いが、同時に他者に対する警戒心を極度に持っている。

見捨てられることも支配されることも、思っただけでぞっとする。
しがみつきと引き篭もりの両極の間、形振り構わぬ、屈従と狂乱的反抗との両極の間を揺れ動く。
ケア提供者を理想化して特別の、関係を結び、通常の対人的境界がなくなってしまう。

21、多重人格障害の患者にも、不安定な対人関係が見られる。

解離されている交代、人格によって、極めて矛盾した関係の持ち方のパターンが現れる。
身体化障害の患者にも親密関係の困難がある。
自己同一性形成の障害も境界性人格障害および多重人格障害の患者につきものだ。
自己が断裂し、解離された複数の交代人格となることが多重人格障害の核心だ。
境界性人格障害の人でも、自己の内的イメージは善と悪との両極に分裂している。

この三障害の共通点は、児童期の外傷に起源があるということだ。
多重人格障害の場合に児童期外傷の既往が病因となっていることは確定済だ。

境界性人格障害の場合も、多くが重症の児童期外傷の既往があり、虐待の開始が早いほど、また烈しいほど、発症する確率が高くなる。

身体化障害と児童期外傷との繋がりは、現在までのところ証拠不完全だ。

十九世紀にブリケがこの障害の患者を観察して、其の三分の一以上に虐待などの外傷体験があったとして以来、一世紀の空白があり、身体化障害と児童期外傷とのつながりの研究は最近再開されたばかりだ。

以上三つの障害を、最も適切に理解する道は、其れぞれを複雑性PTSDの一種として、其れぞれの個性は外傷的環境への適応の一つの形式に由来したものと解することではあるまいか。
PTSDの生理神経症=身体化障害
変性意識=多重人格障害
同一性と対人関係の障害=境界性人格障害

児童期外傷の既往という光で見れば、三つの障害の特徴の多くがより理解できるものとなり、被害経験者が自分で納得するようになる。困難を自己、の生まれながらの欠陥のせいにする必要はなくなる。
児童期外傷の役割を理解すると、治療のあらゆる面にヒントが得られ、協力的な治療同盟の基盤が与えられる。
被害者の反応が正当なものであり、しかし現在は適応的でないことを認識させてくれる。

治療関係に於ける外傷の再演の危険を防ぐ最高の保障となる.。
無数の間違った診断をさんざん積み重ねられ、無数の無効な治療にさんざん悩まされてから、遂に其の心理的問題の起源は、其の重い児童期虐待にあることに気付いた三人の被害経験者の話が、最後に挙げられている。

22、治癒的関係とは?

心的外傷体験の中核は無力化(disempowerment)で、離断(disconnection)である。
回復の基礎は有力化(empowerment)であり、他者との新しい結びつきを創る
回復は孤立状態では起こらない。
次のような心的能力を、他者との関係の中で創り直さなければならない.。

基本的信頼を創る能力、自己決定を行う能力、積極的にことを始める能力、新しい事態に対処する能力、自己が何であるかを見定める能力、他者との親密関係を創る能力、だ。

回復の第一原則は有力化、パワーを与えることであり、生存者を回復の主体とし続けることだ。
学校で医学的治療モデルを習った人はこの原則の実践に困難を覚える人が少なくない。
しかしこの原則は此れまでにも広く認識されてきた。
カーディナーの自己統御権の奪回原則、スタークとアン・フリットクラフト 自己決定性と自己統御権の賦与、生存者と治療者との関係は人間関係の一つに過ぎず、唯一でも最善でもない。
しかし多くは、いつかは精神保険関係の援助を求めるようになる。

23、治療者のとるべき基本的な構え。
治療の目的はただ一つ、患者の回復を促進することだ。こと.。
権力の行使に関する契約。
治療者は力を乱用しようという、いかなる誘惑にも抵抗して、自分に与えられた力をただ患者の回復を育てるためにのみ、行使する責任がある、

個人的興味を持たず中立性を守るべきだ。
個人的興味を持たない、つまり、自分の個人的欲求の満足のために患者に対して、権力を行使することを、絶対にしないようにするということ。

中立的、即ち、患者の内面で葛藤しあっているものの、どれかの肩を持つことをせず、また患者の生活決定に直接指示もしないということ。
そして此れは、技術的中立性のことで、道徳的には断固犠牲者の側に立つ態度がなければならない

治療者には知的側面とエンパシー的側面とがなくてはならない
治療同盟は打ち砕かれた基本的信頼というマイナスを超えて双方の努力の暁にようやくつくられるものだ。
患者、治療者の双方がともに治療同盟の関係に入るまでに様々な困難が見込まれるのは当然だ。

24、外傷性転移

転移とは、患者、クライアントが治療者に対して抱く感情だ。
外傷性転移では、通常の転移でなく、境界性人格障害の場合がそっくり当て嵌まる。
そして、加害者が影の第三者として存在し介入する三者関係が作られる。
恐怖体験のみならず孤立無援体験は治療者を万能者と見立て、此れによって再体験の恐怖から守らせる.。

介護者に転置される怒りは屈辱と羞恥を交えたもので救援者を自己の位置に引きずりおろしたいとするものだ。

信頼感の損傷のために疑惑と不信とを抱いて治療者との関係に入る.。
治療者は自分の真実に耐えられないのではないか.。
耐えて聞こうとする治療者には下心があるのではないかと疑う.。
被害経験者が加害を招く中に治療が入っていることもある。
些細な治療者の態度に慢性外傷患者は其の被害経験によって深い意味を読み込む.。
患者の防衛的な構えによる誤解釈と其れに対する治療者の反応は虐待の再演になる.。

此れらが、医学的治療が端的な再演になる例として。
長期的虐待経験者は性的供与のみが価値ある贈与だと思い込みやすい。

其のため、患者が治療者の誠意を試みるために性関係を迫る場合も虐待の再演になる
多重人格障害においては其れぞれに下位人格の転移は別々であり、断片化され、動揺する。其れは、性的かつ敵対的な転移が必発に近い。

25、治療者のこのナルシシズム的な欲求を制御しなければ、治療関係は腐敗する。
あらゆる種類の境界侵犯、最終的には性的関係に至るものは、患者の救済への渇望と治療者の救済者としての、例外的才能という名のもとに合理化されてしまう。

患者の怒りと同一化する。

治療者は患者の怒りと同一化し、患者を無力化する行動をしてしまう。

患者の怒りを先取りして自分の方が怒り出してしまう。
其の怒りは加害者、傍観者、患者を理解できなかった此れまでの治療者や、世間一般にも向けられる。

または、同一化を介し患者の怒りの深さを認識して患者が怖くなり、患者の怒りに対して卑屈になる。

患者の悲しみと同一化する。

治療者は痛みに飲み込まれ、絶望の淵に沈む。
治療者がこの悲しみを担えるだけのサポートを得られなければ、患者の証人は果たせず、治療が行えない.。

患者の希望喪失感が伝染していると自覚することで立ち直らなければならない。

治療者は加害者の感じ方にも同一化する.。

加害者との同一化は様々な形をとりうる.。
患者の話への不信感、虐待の過小評価、合理化、患者の行動への反発と嫌悪、裁きやアラ探し、患者の孤立無援感への軽蔑、患者の怒りへの被害妄想的な恐怖、あからさまな憎悪や厄介払いしたいという気持ち、覗き魔的な興奮を覚え魅惑され、性欲の高まりを覚える。性的暴力に屈した女性患者の男性治療者にはよくある逆転移だ。

26、治療者は自分も悪事を働き加害者になり得るという事実に直面する.。

治療者は自分自身のサディスティックな感情から目を逸らさず其れと対決しなければならない。

治療者は傍観者とも同一化する。

この反応では目撃者の罪悪感、が最も普遍的で深刻だ。ホロコーストでは罪悪感が最も普通の逆転移反応となる。

罪悪感のために治療者は自分の私生活を楽しめなくなる。

治療者は自分の治療の熱意が足りないとか不十分だと厳しい判断を下して、無制限の献身に陥る。
治療関係において患者の人生に過剰な個人的責任を引き受けてしまい、患者を無力化してしまう。
職場などでも過度の責任を背負い込んでしまう危険がある。

罪悪感ということでは、患者に外傷の苦痛を再体験させてしまったという罪悪感を覚えることもある。→必要な治療が出来なくなってしまう。

27、複雑性PTSDを持つ患者の場合

治療者は当初外傷其のものよりも患者の損傷された対人関係様式の方に反応する.。
患者に外傷の過去があるのではないかという最初の予感はしばしば治療者の逆転移反応から来る。

治療者は、被虐待児の内面の混乱、悪夢、麻痺や知覚変容、離人感、非現実感、被影響体験、時に解離までも体験する。

加害者の気まぐれに対する患者の恐怖を反映し、治療者は患者に対する感情的応答が相応しくない奇妙なものになってしまう。宙釣り感といわれる。

逆転移の結果、時には治療者は患者の被害者とされてしまったと感じるところまで行く。

治療者は逆転移を通じて患者の体験を理解し、患者の内部世界における配役を突き止めるべきだ。この場合の役者達は患者が外傷を受けた過去の対人関係的環境を反映している。

外傷性転移反応も逆転移反応も避けることは出来ない。

患者、治療者双方の安全のために、患者と治療者との治療契約と、治療者に対するサポート・システムが必要だ。

28、再結合
自分自身と和解し、自分が主人公になる事.。
生存者の此れからの任務は〈 自分がなりたい人間になる 〉ということだ

わたしはわたし自身の持ち主だ。其れは確かだ。I know I have myself 、
回復の第三段階のシンボルマークだ.。

第三段階の過程において生存者は外傷の以前の時期、外傷体験自体、そして回復の時期を振り返って、そこから自分が最も高く評価する自分の面を改めて引き出す。

段階における構想力imaginationと空想力fantasyの鍛練の必要性。
理想的自己の再創造には imagination と fantagy を積極的に練磨する事が必要だ。
此れ以前の段階においては、生存者の fantagy生活を支配し占領しているものは外傷の繰り返しであり、またimaginationは孤立無縁であり何をしても無駄だという感じによって狭められていた。

被害者という狭いスタンスを去って、足を踏み出すには勇気が要る。
生存者が自分の恐怖に直面しなければならなかったのと同じように、あえて自分の願望を明確にしなければならない。

例:被殴打女性のための生活再建事業のガイドブック
あなたはずっとこう教わってきたかもしれない。
すなわちあれも此れも全部やって見たいと無論誰でもが思うけれども、ほんとに其れを手に入れられると思うのは青春期のうわごとだと。
あるいは成熟した人間というものは見栄えのしない人生に腰を据えて、手の中にある物だけで間に合わせてゆくものだと思い込んでおられるかも。

しかし、あなたが自分でちゃんとした理由を思いつくまでは、此れも、いや何でもリストからはずさないように。

29、主要治療課題、欲望と主動性inisiativeの発展を目指すこと。
この時点における治療課題の焦点は欲望とinisiative の発展を目指す事に置かれる。

治療的環境はfantagyが自由にはばたける庇護的空間を許容し、具体的行動に移し替える、テスト・グラウンドだ。

外傷によって作られた自己や自己規定の放棄。
自己自身の持ち主となる、つまり自己の主人公となるためには、しばしば外傷によって押しつけられた、自己の一部分を排除する必要が起こる。

生存者が犠牲者だ、という自己規定identitiyを捨てるにつれて、此れまでおおよそ自分の持ち前だと思ってきた自己の一部を放棄する事を選ぶようになっても不思議ではない。

この過程、外傷によって作られた自己や自己規定の放棄、は生存者の幻想能力imagination と自己規律能力とに対するチャレンジだ。

例:ある謹慎間被害者のサドマゾヒズムのシナリオに対する、反応の仕方を意識的に変える治療計画。
わたしは、其れはわたしのfantagyではない事を理解した。其れは虐待によってわたしに押しつけられたものだと。わたしはわたしのリプログラミングをやった。

30、自己との再結合と平生心になじむ、被害者人生の退屈さに気づく。
自分自身と再結合するにつれて、生存者の感じ方は穏やかになり、平生心をもって人生に対する事ができるようになる。人生が当たり前になる

外傷的環境の中で育てられ、正常な生活を生まれて始めて体験する人の場合、時にはこの平和な日々がかえって馴染めないものに思われるかもしれない。

しかし過去に於いては、生存者はしばしば普通の人生というものは、きっと退屈だろうと想像していたのに対して、今は被害者人生に退屈し、普通の人生の面白さに気づく心の準備が出来上がっている。

例:児童期性的虐待を受けた生存者。
わたしはスリル中毒。ひとつのスリルが終わるたびにわたしはがっかりする。(略)スリル欲求を手放してゆく事はわたしがわたし自身から乳離れしてゆく過程だった。わたしは裏表の無いさらりとした満足を本当に少しは味わえる地点に辿り着いた、

自分を許し、外傷性記憶に寛大になり、受容する。

自分自身の中で外傷的環境によって形成された面がどれかを認識し、其れを手放す、につれて、自分自身を赦すようになってゆく。

例:ポルノ女優
わたしは過去のリンダ・ラブレース(自分)を振り返ってみると、彼女の気持ちが分かる。彼女がした事をどうしてしたかが分かる。死ぬよりも生きている方がよいと思ったから、ああしたのだ。

31、外傷性体験におけるプラス面を発見する
適応に対する自分の潜在能力、解離という精神の並外れた能力について。
寧ろ此れを用いて、現在の生活を豊かにする術を、身につけようとする事さえあっても不思議ではない

被害者自己への共感と畏敬、と生存者自己への祝福、の合体。

自己の平凡さ、弱さ、限界、他者からの寄与の受容。

外傷を受けた被害者だ。自己への共感と畏敬とは、生存者だ。自己への祝福と合体してひとつになる→プライドの新生。

ただしこの自己讃嘆は被害者に見られる特別感とは異なる。

被害者の特別感 と自己嫌悪と無価値観との埋め合わせだ。其れは常に危く傷つきやすくいつも完全でなければ気が済まない。さらに、被害者というものの特別感には自分は他の人々とは別ものであり他の人々から孤立しているという感じが付きものだ.。

生存者 というものは自分の限界、自分の弱さ、自分の平凡さをあますところなく自覚している。しかしまた、自分は他の人々に繋がり、他の人々のお陰を受けている事も自覚している

例:被殴打女性の礼では、わたしはたっぷりと癒しと愛とを与えられた。わたしは其れを次の人に渡すすべを学びつつある。

32、他者と結合する

信頼能力の回復。
回復の第三段階ではすでに適切な信頼能力を取り戻している。
信頼できる場とできない場との見分けが可能になる。
自分は自分以外の人々との結びつきを保ちつつ、自律的であると感じる能力をも取り戻している。
自分のものの見方と、自分の犯されない境界線を保ちつつ、自分以外の人々のものの見方と境界線とを尊重するようになれている。自分以外の人達と深い関係を結ぶ勇気が持てるようになっている

治療関係の変化。
緊密強固感が無くなり、リラックスし、安全確実感がある。
即興とユーモアをいれる余地が生まれる。
患者は自己観察能力が増大し、内面の葛藤に対する許容量も大きくなる。
自分の限界にも治療者の限界にも許容的となる。

生存者の主な課題、自己規定identityと親密関係intimacy。
自己規定identityと親密関係intimacy、青春期の特徴.。
この段階における生存者はこの二つの問題に集中するために第二の青春にいるかのように感じる事も少なくない。
虐待的な環境の中で成人となった生存者は実際に第一の青春を持つ事を拒まれた人であり、この時期に発達する対人的なスキルが欠けている事が少なくない。

対人的不器用と自意識過剰とは、普通の青春期でも波風のもととなり、生き辛いものにするが、成人の生存者にはこの二つが拡大して現れることもよくあり、他の成人達が当たり前と思っているスキルに立ち後れている事を激しく恥じ入りもする。

33、外傷は最早生存者の親密関係を妨げる力を持たなくなる。
外傷が退いて過去の中に入ってゆくにつれて、其れは最早親密関係を妨げる邪魔物ではなくなる。
自分が外傷の事ばかり考えているために、パートナーがどのように苦しんでいるかを悟るようになる。

外傷性性障害と其の治療原則。
親密な性的行為は性的外傷の生存者には特別の障害物となる。性生活のコントロール強化は、最初はパートナー抜きの性行為によるのが一番早道だ.。

外傷経験者の次の世代への配慮、繰り返さないように!、
回復の此れ以前の段階では、子どもを産むのを避ける事も少なくなかったすでに親だならば、他の対人関係と同じように過保護になったり、構わなくなったり、両極の間を揺れ動く

自己の外傷体験の子どもへの影響に対する開眼.。
外傷ストーリーの子どもへの開示。
外傷ストーリーは生存者の財産の一部であり、遺産として引き継がれるべき物だ。
ただし、完全に統合された暁にのみ、生存者は此れを安じて次代に受け渡し、次代に暗い影を落とすのでなく力と発想との源泉の一つとなるであろうと確信する
例として戦争帰還者生存者が挙げられる。
即ちsurvivorshipは一つの残すべき遺産なのだ。

34、共世界

外傷の破壊性とグループの修復、再創造性について。
外傷的事件において生き残ったものは、自己という感覚(特に自分が価値あるのだという感覚や、自己が人間に属するのだという感覚)は、自分以外の人々の結びつきに依存することを味わう。
外傷によって孤立、端の意識、堕落、否認弦かが生じるようになるが、グループの結びつきによって所属感を再創造、人間性の回復、肯定感が得られる。

他者の愛他性の回復力と共世界に再加入させる力について。
愛他性とは相手の身になって考え、相手本意で行動することだ。被害者が不可逆的に破壊されたと思っている自分の中のもの(信仰や品性や勇気)は、愛他性によって回復する。自分以外の人々の行動を鏡として、生存者は自らの失われた部分を認め、其れを取り戻す。この瞬間から生存者は人間の共世界に再加入する。

グループにおける普遍性体験の治癒力について。
社会の絆の取り戻しは、わたし一人ではないという発見を持って始まる。この体験が確実に得られるのは似たような体験をしたグループとの出会いだ。此れを普遍性体験、といい、恥辱的な秘密を抱いているが故に孤立しているという感覚から開放される。

極限状況経験者へのグループの力について。
グループ参加者は、自分と似た経験を持った人と一緒にいるだけでほっとし、慰められる。

グループにおける鏡映関係について。適応の螺旋。
グループが親密になってくると参加者各自が他のメンバーに寛容と共感と愛をさしだし、其れがまた自分にもはね返ってくるという好循環が得られる。此れによって自己評価も高まり、他のメンバーへの受容も増す。此れを適応の螺旋、という。

しかし、グループの潜在的破壊力は、其の潜在的創造力に等しい。
治療上グループは極めて高い効果があるが、潜在的破壊力もあり、人間間の葛藤で外傷的事件を再現することさえ考えられる。

グループが成功するには治療の任務について明快で焦点の定まった理解がなければならず、また全ての参加者を外傷の再演の危険から適切かつ十分に守る構造がなければならない。

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