Sunday, May 21, 2006

トラウマ

トラウマ、という言葉を最近ではよく耳にするようになってきた。

トラウマは心的外傷と訳されている。
心の傷ということだが、心の傷とはなにかを定義することは難しい。
トラウマについて現在一番使われている、アメリカ精神医学会のDSM-IV精神疾患の診断・統計マニュアルでは次のように定義している。

 (一)実際にまたは危うく死ぬまたは重傷を負うような出来事を、一度または数度、または自分または他人の身体の保全に迫る危険を、患者が体験し、目撃し、または直面した。
 (二)患者の反応は強い恐怖、無力感または戦慄に関するものである。
(DSM-IV精神疾患の診断・統計マニュアル)


しかし、この定義も診断・統計マニュアルが改訂されるたびに変えられている。
それ程にトラウマを言葉で定義するのは難しいことなのである。
そして、その難しい定義をあえて行っているために、とても分かりにくい。精神科医でもあり、臨床心理士でもある小西聖子はトラウマとなるような出来事の特性を具体的に述べている。

 最初にできごとが予測不能であること。これからどういうことが起こっていくか、このあとどうなっていくかがわからない、ということがあげられる。
 二番目の特徴は、コントロールできないこと。自分の力では自態を操ることが全くできないことだ。
 三番目に、起こっているできごとが非常に残虐なものであったり、グロテスクなものであったりする、これもトラウマとなるような出来事の特徴といえる。
 四番目に、自分が愛している人やだいじにしている何かを失うこと、すなわち対象の喪失が起こることだ。
 五番目に、暴力的なできごとはトラウマをもたらしやすいことがあげられる。
 それから最後に、そのできごとによって起こってくる結果に対して、実際に自分に責任があると思われたり、あるいは、主観的に責任があるとどうしても感じられたりすること、そういうこともトラウマをもたらすようなできごとの特徴であるともいえる。
(NHK人間講座『トラウマの心理学』 二〇~二二ページ)


このように考えると、自然災害や事故、戦争、傷害事件、性犯罪、そして虐待もトラウマ体験となり得ることが分かる。

 トラウマ体験自体の質の違いもその後の影響に関係するのだろうが、主体的な感情としての恐怖感や不安、絶望感なども大きく関係する。

そうすると、個人差というのも生じることとなる。
同じようなトラウマ体験を経験しても、それ程苦労せずに乗り切れる人もいれば、長い間影響を受け続けて生活までもが変わってしまう人もいる。

だが、その個人差は乗り切れない人を責める要素にはなりえない。
どんな人でも、心的外傷を得れば簡単に乗り越えることはできないと考えるべきであろう。
乗り切ることのできない苦しみは、本人が一番感じているのだ。
そこへ追い討ちをかけるように、責めるようなことをすれば、回復はさらに遅れていくことになるだろう。

 先にもトラウマは心の傷だと述べたが、すぐに回復できるような心の傷は誰もが経験しているだろう。

では、そういった傷とトラウマとの違いはなにか。
その違いの一つとして、その後の生活への影響の有無が挙げられる。

例えば、いつも通る帰り道でレイプにあったとする。
そうすると、その道はもう二度と通れなくなる。
通ろうとすると恐怖で身体に異常をきたす。
そうすれば、そのレイプはトラウマ体験となるのである。
そして、その心的外傷後の影響をPTSD、心的外傷後ストレス障害と呼んでいる。

心的外傷的体験の直後に起こる症状はASD(Acute Stress Disorder)、急性ストレス障害という名称でまとめられている。

A.その人は、以下の二つがともに認められる外傷性の出来事に暴露されたことがある。
  (一)実際にまたは危うく死ぬまたは重傷を負うような出来事を、一度または数度、または自分または他人の身体の保全に迫る危険を、その人が体験し、目撃し、または直面した。
  (二)その人の反応は強い恐怖、無力感または戦慄に関するものである。
B.苦痛な出来事を体験している間、またはその後に、以下の解離性症状の三つ(またはそれ以上)がある。
  (一)麻痺した、孤立した、または感情反応がないという主観的感覚
  (二)自分の周囲に対する注意の減弱(例:“ぼうっとしている”)
  (三)現実感消失
  (四)離人症
  (五)解離性健忘(すなわち、外傷の重要な側面の想起不能)
C.外傷的な出来事は、少なくとも以下の一つの形で再体験され続けている:反復する心象、思考、夢、錯覚、フラッシュバックのエピソード、またはもとの体験を再体験する感覚、または外傷的な出来事を想起させるものに暴露されたときの苦痛。
D.外傷を想起させる刺激(例:思考、感情、会話、活動、場所、人物)の著しい回避。
E.強い不安症状または覚醒の亢進(例:睡眠障害、易刺激性、集中困難、過度の警戒心、過剰な驚愕反応、運動性不安)。
F.その障害、臨床上著しい苦痛または、社会的、商業的、または他の重要な領域における機能の障害を引き起こしている。または外傷的な体験を家族に話すことで必要な助けを得、人的資源を動因するなど、必要な課題を遂行する能力を障害している。
G.その障害は、最低二日間、最大四週間継続し、外傷的出来事の四週間以内に起こっている。
H.障害が、物質(例:乱用薬物、投薬)または一般身体疾患の直接的な生理学的作用によるものでなく、短期精神病性ではうまく説明されず、すでに存在していた第一軸または第二軸の障害で単なる悪化でもない。
(DSM-IV神疾患の診断・統計マニュアル)


 それが一ヶ月以上続くとPTSD(Posttraumatic Stress Disorder)、心的外傷後ストレス障害となる。PTSDは心的外傷後の様々な反応をまとめたものではあるが、精神的後遺症の総称ではない。

PTSD以外にも抑うつ的になったり、錯乱状態になったり、障害とまではいかなくても具合が悪くなったりすることもある。
しかしここでは、PTSDに限定して述べていく。

心的外傷後ストレス障害の診断基準について先程のDSM-IV精神疾患の診断・統計マニュアルでは、様々な面から設定している。

A.患者は、以下の二つが共に認められる外傷的な出来事に暴露されたことがある
 (一)実際にまたは危うく死ぬまたは重傷をおうような出来事を、一度または数度、または自分または他人の身体の保全に迫る危険を、患者が体験し、目撃し、または直面した。
 (二)患者の反応は強い恐怖、無力感または戦慄に関するものである
[注]子どもの場合はむしろ、まとまりのないまたは興奮した行動によって表現されることがある
B.外傷的な出来事が、以下の一つ(またはそれ以上)の形で再体験され続けている
 (一)出来事の反復的で侵入的で苦痛な想起で、それは心象、思考または知覚を含む
   [注]小さな子どもの場合、外傷の主題または側面を表現する遊びを繰り返すことがある
 (二)出来事についての反復的で苦痛な夢
   [注]子どもの場合は、はっきりとした内容のない恐ろしい夢であることがある
 (三)外傷的な出来事が再び起こっているかのように行動したり、感じたりする
(その体験を再体験する感覚、錯覚、幻覚、および解離性フラッシュバックエピソードを含む、また、覚醒時または中毒時に怒るものも含む)
[注]小さい子どもの場合、外傷特異的な再演が行われることがある
 (四)外傷的出来事の一つの側面を象徴し、または類似している内的または外的きっかけに暴露された場合に生じる、強い心理的苦痛
 (五)外傷的出来事の一つの側面を象徴し、または類似している内的または外的きっかけに爆発された場合の生じる理学的反応性
C.以下の三つ(またはそれ以上)によって示される、(外傷以前には存在していなかった)外傷と関連した刺激の持続的回避と、全般的反応性の麻痺
 (一)外傷と関連した思考、感情または会話を回避しようとする努力
 (二)外傷を想起させる活動、場所または人物を避けようとする努力
 (三)外傷の重要な側面の想起不能
 (四)重要な活動への関心または参加の著しい減退
 (五)他の人から孤立している、あるいは疎遠になっているという感覚
 (六)感情の範囲の減少(例:愛の感情を持つことができない)
 (七)未来が短縮した感覚(例:仕事、結婚、子ども、または正常な一生を期待しない)
D.(外傷前には存在していなかった)持続的な覚醒亢進症状で、以下の二つ(またじゃそれ以上)によって示される
 (一)入眠困難または睡眠維持の困難
 (二)易刺激性または怒りの爆発
 (三)集中困難
 (四)過度の警戒心
 (五)過激な驚愕反応
E.障害(基準B,CおよびDの症状)の持続期間が一ヶ月以上
F.障害は、臨床的に著しい苦痛または、社会的、職業的または他の重要な領域における機能の障害を引き起こしている
◆該当すれば特定せよ
 急性:症状の持続期間が三ヶ月未満の場合
 慢性:症状の持続期間が三ヶ月以上の場合
◆該当すれば特定せよ
 発症遅延:症状の始まりがストレス因子から少なくとも六ヶ月の場合
(DSM―IV精神疾患の診断・統計マニュアル)


しかし、これもトラウマの定義と同様、様々な症状があるものを定義するのは難しく、また歴史も浅いためにまだ流動的なものとなっている。

ハーマンやコークらが児童虐待によるPTSDはより複雑なために、異なる概念によって区別すべきだと提唱しているように、この定義に疑問を投げかけている専門家は多く、まだ明確な定義とは言えない。

しかしながら、人が衝撃的な出来事に曝された時、場合によっては修復困難なトラウマが生じ、心身に様々な症状が出るということが明らかである以上、この定義の論争はこれからも深められていくべきだろう。

 PTSDは阪神淡路大震災の時に、日本でも聞かれるようになったことは記憶に新しい。その後、最近では虐待や池田小連続殺傷事件等でもPTSDという言葉が出てくるようになった。

トラウマという言葉もいつの間にか、流行のようによく耳にするようになったように、PTSDもまた、徐々に耳にする機会が増えていくのだろう。
 しかし、そこには利も害も伴う。

安易に使われることによって本来の意味が薄れ、本当にPTSDで苦しんでいる人々の苦しみが軽く受け止められたり、PTSDという言葉が広まるにつれ誤解が生じたりする場合もあるだろう。

そうなった場合、被害者は社会によって二次被害を受けることにもなりかねない。この問題は特にナイーブなものであり、メディアでこの問題を扱う時には、慎重であらなければならないだろうメディアによって虐待は連鎖するといった誤解を招き、多くの被虐待者を苦しめているように、PTSDという言葉の普及がPTSDで苦しむ人々を、さらに追い詰めることにならないことを祈る。

 PTSDには様々な症状があるが、それを大きく過覚醒、侵入、狭窄、の三つに分けることができる。

過覚醒、(DSM-IV項目D)
 過覚醒は、PTSDの第一の主要症状であり、持続的な覚醒のことを言う。

心的外傷体験と同じ危険がまた襲ってくるのではないかと、常に緊張した状態になり、些細なことに過敏に反応して苛立つ。また、リラックスを必要とする睡眠が妨げられる。

危険な状態に遭遇したのだから、その状況から逃れられたとしても、すぐには安心できないのは当然である。
恐怖が心に居座り、脅えた状態が続き、例えばドアの開く音など一寸した物音に敏感に反応したり、何気ない言葉に興奮したりしてしまう。

 この状態が続くということは、体力をかなり消耗することになる。安心した生活ができないということは、心と身体を休めたり、癒したりすることができずに、疲れ果てることとなる。このことは、他の症状を強化する原因ともなるだろう。

侵入、(DSM-IVの項目B)
 侵入とは再体験のことである。
PTSD患者は心的外傷体験から長期間過ぎても、その危険を何度も再体験する。誘因が無くても、突然事件がフラッシュバックしたり、睡眠時に外傷性悪夢をみたりする。
それはまるでビデオフィルムを巻き戻し、何度も再生されるようなもので、同じような映像や体験が繰り返される。
これらは自分の意志でコントロールすることができず、突然起こり、止めることもできない。また、その再体験には感情も伴う。
まさに今体験しているかのように、恐怖や悲しみを感じたり、痛みなどの感覚を伴ったりすることもある。

 再体験とはつまり、再度の被害であり、トラウマ体験を何度も体験するようなものである。実際の身の危険はないが、精神的な苦痛は実際にトラウマ体験した時と全く変わらない。
長い間事件に支配された状態になり、困惑し苦しむことになるのである。
この再体験は子どもの場合、言葉で表すことができないために遊びとして表現されることがある。
強迫的に繰り返し同じような遊びを繰り返す時には、トラウマ体験の再体験であることがあるので注意しなければならない。

狭窄、(DSM-IV項目C)
 狭窄は降伏状態のことをいう。
どんな努力をしても自分の力ではどうすることもできず、完全に無力化された時、人は降伏状態となる。
この狭窄には大きく二つある。

まずは知覚変化である。
知覚が鈍くなり、無感動、無感覚な状態に陥り、解離や現実の歪み、意識の狭まりなどの反応を示す。
痛みを感じなくなったり、嬉しいとか悲しいという感情が麻痺したりする。此れは、苦しみを感じるくらいなら、全ての感情を感じない方がまだ良いということから起こるものである。
凍りついた瞳frozen eyesと呼ばれるのは、この狭窄を経験している人の持つものであろう。

もう一つは、感情的変化である。
圧倒的な受け身感によって、心的外傷と関連するような場所を避けたり、考えないようにしたりという回避が行われる。
嫌なことや危険なことを避けようとするのは、正常な人間の防衛反応であり、当然とも言える。
しかし、そうして考えないようにするといった回避は、解離への第一歩でもあるのだ。
また、心的外傷と関連する場所だけではなく、人との関係を避けるということも起こり、生活に大きな影響を及ぼす。

 PTSDは心的外傷を受けた人を長い間苦しめることになる。また身体の傷とは異なり、見付けられにくいし、理解されにくい。その苦しみもまた、PTSDを持つ人々を追い詰める原因になっているのである。日本でも、心的外傷やPTSDのしっかりとした理解を持つ専門家が増えることを望んでならない。


虐待によるPTSDは、DSM-IVによる一般的なPTSDとは異なるという指摘は多い。ここでは、虐待による反応に特徴的なことについて言及していく。一般的なPTSDと異なるという根拠は、心的外傷の回数に関係がある。レノア・テアは心的外傷の種類を二つに分けている。

くりかえしトラウマ体験をした子供たちのほうが、単一の体験をした子供たちよりも、虐待者についての間違いが少ない。マサチューセッツ州ケンブリッジの精神科医ジュディス・ハーマンが一九九二年の著書『トラウマと回復(実際は『心的外傷と回復』)』で鋭い指摘をしているとおり、虐待をくりかえす者は強制収容所の警備員や刑務所の看守と同じだ。

性的虐待を受ける子供は加害者に管理、されている。
被害者は逃れられない。

此れが第一タイプ(単一の被害体験)と第二タイプ(複数回の被害体験)の子供の違いである。
第二タイプの子供はふつう、トラウマ体験を強いる人びと(幼稚園の先生や牧師、バスの運転手、伯父さん、父親など)をべつの人間と混同することはない。
(『記憶を消す子供たち』 四九ページ)


西澤哲はこのタイプに加え、消防士やレスキュー隊など一回ではトラウマ体験とならないような体験でも、蓄積されることによって影響が出るという場合の、第三タイプ(蓄積型)があると述べている。

つまり、虐待によるトラウマは複数回、慢性的に強いられるという点で、単一のトラウマや蓄積型のトラウマによるPTSDとは異なるのである。

ハーマンはこれらのことから、一般的なPTSDと区別して複雑性PTSDという診断名をつけるべきだと提案している。
そういう動きから、アメリカ精神医学会の診断統計マニュアル作業部会は特定不能の極度ストレス障害(DESNOS)の用語を暫定的に選択したが、DSM-Ivでは収載されるに至らなかった。

一.衝動・衝動の調節に関する障害
 a 情動の規制障害(抑うつ感、躁状態など)
 b 怒りの調整障害
 c 自己破壊性(自傷行為、嗜癖など)
 d 自殺願望
 e 性的関わりへの調整障害(過度で自己破壊的な性行為、性倒錯など)
 f 危険な状況へ自ら飛び込む衝動(トラウマの嗜癖)
二.注意・意識に関する障害
 a 健亡
 b 離人症
 c 一過性の解離のエピソード
三.身体化
 a 消化器系(潰瘍性大腸炎など)
 b 慢性痛(頭痛など)
 c 心肺系(喘息など)
 d 転換症候(歩行障害、失声など)
 e 性的症候(性的不能、性的動昂進など)
四.自己認識に関する障害
 a 無力感(自分には自らを守る力さえない、と思う)
 b 癒すことの不可能な自己損傷の感覚
 c 罪悪感と罪責感(自分の過ちのためにトラウマが起きた、と思う)
 d 羞恥感(本当の自分は、人前にさらすことが恥ずかしいような存在だ、と思う)
 e 誰も自分を信じない、と思う
 f 自己卑下(自分など生きるに値しない存在だ、と思う)
五.(トラウマの)加害者についての認識に関する障害
 a 加害者の歪んだ信念の探り入れ(パワーで人を支配するという考え方、など)
 b 加害者を傷つける願望にとらわれる
 c 加害者を理想化する
六.他者との関係における障害
 a 他人を信頼することの不能
 b 他人を犠牲者(被害者)にする
 c 自分が再び犠牲者(被害者)にする
七.意味システム(世界観)における障害
 a 自暴自棄、絶望感
 b 以前の自分を支えていた信念大系の喪失
(注)カッコ内は斎藤学による註
(van der Kolk, B.A. & Fisler, R.E. : Childhood abuse and neglect and loss of self-regulation. Bulletin of the Menningen Clinic, 五八, No.二(spring), 一九九四.)

 この診断が提案された意図は何か、それは慢性的なトラウマ体験の患者を救う為には診断統計マニュアルにある。

PTSD判断では充分ではないということである。

しかしながら、診断統計マニュアルに収載されなかったのは、まだ研究途中であり、不確定なものであるという保守的な考えからではないだろうかと私は思っている。
たとえ診断統計マニュアルに収載されなかったとしても、こういった提案が起きたことが、大きな一歩であると考えるべきであろう。

この診断から受け取れるのは、慢性的に、しかも幼い頃に起こったトラウマは、被虐待者の人格形成に大きな影響を与えるということである。
その体験が長期化すればする程、始まりが幼ければ幼い程、トラウマは心の中に内在化され、人格・意識の中心になる。

強いショックを与える体験は心に異物を形成し、そうした異物は繰り返し心の中で反復されることによって次第に異物ではなくなっていくものであり、此れはその異物を消化吸収しようとする正常な心の働きの現れである。

何らかの理由で心の処理機能が十分に働かず、その結果、心の異物であった体験が、『心の寄生虫』、つまりトラウマとなってしまったものだと考えられるのである。(略)これまで心は寄生虫であるトラウマを否認や反復的再現といったプロセスによって何とか消化吸収しようとしていたものが、次第にトラウマの存在を前提として心を構造化していくということである。

トラウマが内在化され、トラウマを前提に心が構成されることによって、心の機能のさまざまな領域が影響を受けることになる。
(『トラウマの臨床心理学』 六六~六七ページ)

トラウマを内在化してしまうと、それを排除しようという回避・マヒは消え去り、トラウマを含んだ人格・意識として確立してしまう。
影響は、症状ではなく人格として取り込まれる。
この、人格への内在化が単回のトラウマ体験とは大きく異なるものであろう。

 被虐待者の大きな特徴に解離がある。
ハーマンのいうダブルセルフも自分や他者の分裂であるが、解離もまた分裂の一つである。

解離には三つのタイプがある。

一)一次的解離
 一次的解離とは、現実の体験によって生じる認知や感情、感覚などから離れてしまう状態である。(略)親からひどい虐待を受けている時に、意識はどこかまったく別の場所を訪れていたと述べる子どもは少なくない。この場合、子どもの意識は現実の体験から遠ざかってしまっている。つまり解離を生じていると言えよう。また、なかには親から叩かれていた時にいっさい痛みを感じなかったと報告する子どももいる。こうした子どもは耐え難い痛みの感覚から遠ざかっているのであり、これも一時的解離の一つだと言える。

二)二次的解離
 上述の一次的解離が現在の自分の体験から離れてしまう、という現象を指すのに対して、ここで言う二次的解離とは、現実の自分の体験から離れた意識が、現在の自分の体験を見たり、観察したりする現象を言う。(略)こうした二次的解離を起こしている人は、観察していることが自分の身に起こっているのだと認識できている場合もあれば、あの子はかわいそうに、あんなにひどい目にあっている、としてその体験を自分以外の別の人の体験だと考える場合もあるようである。いずれにせよ、身体や体験から切り離された意識が、残された身体や体験に気づいているという点で、この二次的解離は一次的解離と区別されるのである。そして、たとえば性的虐待や重度の身体的虐待の場合などのように、トラウマになるような体験に子どもが繰り返し慢性的にさらされるような事態では、子どもはこの二次的解離を頻繁に経験するようになると考えられる。

三)三次的解離
 二次的解離の繰り返しは、van der Hartら(一九九六)が『第三の解離』(tertiary dissociation)と呼ぶところの状態を出現させる可能性がある。たとえば、性的虐待というトラウマティックな事態に慢性的にさらされている子どもは、虐待を受けているかわいそうな子ども、を外から眺めるという二次的解離を繰り返し体験するわけであるが、その繰り返しがトラウマティックな事態や被害を引き受ける『もう一人の子ども』を誕生させることになる可能性がある。

そうすることによって、トラウマとなるような事態から守られた安全な自分を確保することが可能となる。
(略)そして、このようにして構造化された今一つの人格、たとえば性的虐待という体験を引き受けた人格は、トラウマティックな体験と関連した何らかの刺激が与えられた場合に活性化し、前景に現れてくるのだと考えることができる。

こうした解離は、トラウマティックな被害を受け、意識から切り離された存在が活性化するという点で、これまで述べてきた一次的解離や二次的解離とは質を異にするものであり、此れをここでは三次的解離と呼ぶ。

そして、この人格あるいは人格状態は、先に見た解離状態の自己規制の副産物的な存在であると言える。
つまり、解離状態によってトラウマとなるような体験から切り離されて守られた自己の一部の背後には、トラウマ体験を繰り返している自己の断片が存在することになるのだ。
(『トラウマの臨床心理学』 六二~六四ページ)


特に性的虐待を受けたサバイバーは解離をしやすいという見方が強くなっているが、性的虐待に限らず何度も繰り返されることから、例えば夜になったら、父親が階段を上ってきたら、というようなきっかけを元に自分に暗示をかけ、自分の意識を外に出してしまう。そして、虐待を受けているのは自分ではないとしてしまうのだ。

 そしてその、虐待を任せている意識に人格を持たせれば、解離性同一性障害(多重人格)となる。

上記のタイプで言うと三次的解離である。
虐待を違う人格に任せてしまえば、虐待の記憶は通常の人格は持ち得ない。

解離によって人格を分裂させた被虐待児は、複数のそれぞれ別個の断片的人格を形成し、それが人格構造の基本原理となってしまう。

その人格は、それぞれが独立した名前、性格、感情、記憶を持つ。

虐待を知っている自分と、何も知らない自分を作り出すことによって虐待を通常意識の外におき、虐待に有効に対処できるようになるのである。しかし、この人格分裂が日常生活に問題をきたすことは、容易に理解できる。

このように、虐待による影響はトラウマの内在化や記憶の抑圧、解離といったように、現存のアメリカ精神医学会の診断統計マニュアルでは規定しきれていない症状が存在する。
こうした症状を単回のトラウマによるPTSDと共に規定するのは難しく、多くの研究者が提案しているように名前を変えて規定するべきではないかと
外傷を受けた人の中には、記憶の封印をしてしまう人がいる。

抑圧とは、想起することによる恐怖などの苦痛を避けるために、想起することを抑制する努力を重ねるうちに、意識することなく自然に心的外傷体験が記憶から消されたかのように見えるようになった状態である。

まず、つらい出来事を一時、心から押しのける。フロイト以後の防衛規制の研究家は、此れを抑制と呼んできた。

フロイト自身はウンダートゥリュックング、(押しこめること)と呼んだ。

抑制は、一時的で意識的な営為である。

つらい問題をしばらく棚上げにしておきたいのだ。

理論的には、抑制した者はいつでもふたたびつらい問題に戻って考えることができる。

だが、子供の場合、抑制は抑圧への一里塚であることが多い。
フロイトは抑圧をフェルドゥレングング、(押しのけること)と呼んだ。押しのけられた記憶はかんたんに、そして永久に意識から取り除かれてしまう。
一部の子供、とくにすでにトラウマ体験を有している子供の場合、この作用は単純でほとんど自動的に起こる。
(『記憶を消す子供たち』 三〇ページ)


何度もその苦痛の体験を拒否し、抑制しているうちに、それはいつのまにか自分の意志に関係なく、抑圧されてしまうのである。
しかしそれは封印であり、決して消えたわけではない。忘れたのではなく、思い出せない、もしくは思い出さないのだ。

ここで、判断が難しい忘却と抑圧の違いを考える。

どちらも記憶が無いという点では同じである、忘却と抑圧の違いをテアは法廷で、おばあさんのブローチを例に説明している。

たとえば、遺言か何かで、あなたがおばあさんのブローチをもらったとしる。
おばあさんとの関係は良好でした。
すてきなブローチだ。あなたは引き出しの奥にしまう。
二十年後、あるブラウスを着たあなたはこう思う。
そうそう、引き出しの奥にブローチがあったっけ、探すと、たしかにブローチはある。
此れが忘れていた、ということだ。
べつにこだわっていない記憶だ。
ほとんどのときは念頭にないけれど、二十年後、ブローチを探そうとすれば、どこにあるのかわかる。

さて、おばあさんが恐ろしい死に方をしたとする。
おばあさんは死んだとき、そのブローチをつけていた。警察がもってきたブローチには血がついていました。
あなたはブローチをきれいに洗って、引き出しの奥にしまう。
ブローチについて、非常に強力な、だが無意識の抑圧が働いたとしる。気持ちのなかで、ブローチは苦痛、トラウマ、恐怖と結びついたのだ。

そうなるとあなたはブローチのことをぜんぜん思い出しません。ただ、目の前で誰かが血を流したり、同じような事故にあったり、おばあさんによく似た人に出会えばべつだ。

そのとき、ふいにブローチの記憶がよみがえる。
ブローチのことを考えるのはいい気持ちがしないでしょう。
ブローチが引き出しの奥にあるのはわかっているかもしれない。
ブローチを見に行くかどうか、それはわかりません。
それは能動的な記憶の抑圧だ。そうした記憶は、存在しないかのようだ。
でも、誰かが血を流しているのを見たり、おばあさんに似た人に出会ったりすると、どっと記憶がよみがえることがあるのだ。
(『記憶を消す子供たち』 七六~七七ページ)


忘却は、自分にとってさほど重要ではなく、常に気に留めておくものではないために、忘れてしまうという行為である。

ところが抑圧は、重要であるが故に思い出さないようにしてしまうのである。

能動的ではあっても、無意識であるというところに抑圧の難しさがあるのだろう。
意識しないうちに、記憶は消えたかのようになってしまい、血を流しているのを見た時に動揺したとしても、何故なのかが分からない。
何故なのかが分からないために、とても苦しい。
そして、たとえ抑圧していた記憶が甦ったとしても、それは苦痛、トラウマ、恐怖と強く結びついた記憶であり、さらに苦しい思いをするのである。

忘却と抑圧は、他者から見れば同じように見えてしまうかもしれないが、大きく異なることをまずは理解しなければならない。

 記憶を失っている場合には、二つ考えられる。

虐待を受けている時は認識しているが、その後でそのことをなかったことにしてしまう抑圧については記述した。

もう一つは虐待が行われている時から、解離してなかったことにしてしまうか、もしくは他の人格に被虐待児の役割を渡してしまう場合である。

解離とは、繰り返し虐待を受けているうちに防衛手段として身に付いてしまうもので、窮地に陥ると自己催眠によって自分の意識を飛ばしてしまうということである。この解離は被虐待者の大きな特徴でもある。

 抑圧の場合、記憶は決して消滅したわけではなく、思い出せない、あるいは思い出さないのであり、甦った記憶はほぼ正確である。

しかし解離の場合、自分の身体から離れた意識が自分を見ていない限り、全く覚えていないことが多い。
解離して自分を見ている意識をレノア・テアは隠れた観察者、と言った。しかし、その隠れた観察者も本当に危険になった場合には出てきてはくれないのだ。

隠れた観察者をもっていて、解離状態でも自分を意識しているように見える患者がいる。
こうした患者の場合、虐待されている自分を子供部屋の天井から眺めていたり、窓から落ちていく自分を遠くでみていたりする。
だが、病的な激しい解離状態に陥るパトリシア・バートレット(文献中に登場する解離障害者)のような人には、隠れた観察者はなかなか来てくれないらしい。
隠れた観察者がどれほどの時間そばで起こることを眺めているのか、予測するのはむずかしい。ほとんどの場合、子供にとってとどまる、のは危険が大きすぎる。
(『記憶を消す子供たち』 一〇九ページ)


観察者も失ってしまった場合、解離によって失った記憶が戻ってくることはほとんどない。
戻ってきたとしても正確ではなかったり、抜けていたりする場合が多い。通常、記憶は一つの流れとして認識されるが、解離を繰り返したり、解離性同一性障害であったりする場合、記憶は途切れ途切れとなってしまう。
また、解離と抑圧は異なるものであるが、記憶を喪失している者はどちらかだけを経験しているのではなく、どちらも経験していることが多い。

 ここで少し脳と記憶の関係について、斎藤学の『封印された叫び』を参考に、私の可能な範囲でまとめていく。

記憶を保存するのに重要な働きをするのは、海馬である。
海馬は簡単に言えば、短期記憶を長期記憶の倉庫へと運ぶ働きをしている。

体験の一部が海馬に一度貯蔵され、その後視覚なら視覚野へ、聴覚なら聴覚野というように、それぞれに運ばれ、そこで安定した記憶情報となる。それらが側頭葉連合野で統合され、視覚像、聴覚的記憶、体性記憶などが一体化した記憶としてまとめられるのである。

そうすると、海馬は体験を記憶と帰るために重要な役割を果たしていることが分かる。

海馬損傷の患者の場合、損傷以降の体験は長期記憶として取り込まれず、それ以前の記憶が残っている。
それらの超長期記憶は側頭葉連合野に残っている。

つまり、海馬が正常に働いている時に側頭葉連合野に残された記憶はそのまま保存され、側頭連合野へと運ぶ原滝のある海馬が損傷してからは、体験が長期記憶へとならないために、残らないのである。

また、この海馬はストレスに弱いことが分かってきている。
何らかの物理的な衝撃が無くても、ストレスによって損傷することもあるのだ。
実際、被虐待者の場合には通常よりも一二%減少しているという報告もある。
このことから、被虐待者の抑圧や解離などの健忘は、脳の働きの低下からなるという考え方もできるのである。

 いずれにせよ、子どもにとってその記憶を覚えておくことは非常に危険であり、その記憶を思い出すと生きていくことが困難になるので記憶の再生に障害をきたすのである。

虐待と他の心的外傷体験との違いは、繰り返されること、加害者は自分の知り合い(ほとんどが親)であることがあげられる。

一度きりの心的外傷体験者はそのトラウマ体験を覚えていることが多い。
しかし、内容があいまいであったり、加害者を誤って覚えていたりすることはある。
一度しか体験せず、しかも危険の中での記憶なので、その記憶があいまいであってもそれは理解できる。

では、虐待のように何度も繰り返される心的外傷体験はどうだろう。
加害者の顔も、状況も正確に覚えることができるはずである。
しかしながら、多くの被虐待者は虐待されていた記憶を再生できない場合が多い。
それは、加害者が知り合いであるためにその記憶を覚えておくことはとても危険であると共に、何度も繰り返されることによって防衛手段を身に付けることができるからである。
その一つとして記憶を抑圧して、なかったことにするということが起こる。
ただし抑圧は健忘ではなく、忘れているわけではないので、抑圧が解けて戻ってきた記憶はほぼ正確である。

くりかえしトラウマ体験をした子供たちのほうが、単一の体験をした子供たちよりも、虐待者についての間違いが少ない。
虐待をくりかえす者は強制収容所の警備員や刑務所の看守と同じだ。性的虐待を受ける子供は加害者に管理、されている。
被害者は逃れられない。此れが第一タイプ(単一の被害体験)と第二タイプ(複数回の被害体験)の子供の違いである。
(『記憶を消す子供たち』 四九ページ)


加害者が知り合いであるということはどのような影響を与えるのだろうか。

子どもは親が正しいと信じているので、親を正当化するために虐待を虐待ではないと思おうとする。
他人ならば悪者にして誰かに訴えることもできるだろう。
しかし、子どもは親を失うのが恐いのでそれができないのである。
従って、自分の心の中で虐待という事実を否定し、取り込むのを拒否したり(解離)、思い出さないように抑圧してしまうのである。

 抑圧された記憶は何年もたって、なんらかの誘因によって解かれる。誘因は匂いや色、音などの感覚刺激である場合もあるし、恐怖や怒り、悲しみなどの情動刺激である場合もある。

『記憶を消す子供たち』で紹介されたアイリーンは我が子を見て父に殺された友達の顔と重なって殺人現場にいたことを思い出したし、私自身は友達が怒っている姿を見て虐待を受ける際の恐怖心が甦った。

 しかし、誘因があればいつでも思い出せるわけではない。

何年も、あるいは何十年もの年月を経るのは、子どもだった被虐待者が成長し、加害者である親と離れ、安全な空間を得るからである。その条件がなければ、抑圧が解かれることはない。被虐待者は安全だと感じて、やっと今までずっと送りつづけていた危険信号を緩めるのである。

 ただし、安全な場所でその記憶の抑圧が解かれたとしても、苦しまないわけではない。心的外傷の記憶は言語化されない記憶である。
通常の記憶は言語化され、物語化され、過去となる。ところが、心的外傷の記憶は生々しい感覚とイメージとで成り立つ。言葉にして記憶とされなかったトラウマ性記憶は過去とはならない。
何年たったとしてもその恐怖は生々しく、被虐待者に襲いかかるのだ。
被虐待者にとって、心的外傷体験である虐待は過去のものではないのである。

 記憶を解いた被虐待者にとって、苦しめる要因がもう一つある。
それは、その記憶の正誤が分からないということである。

もう何年も前のことなので、それを証明することは難しい。
先に抑圧と忘却の違いについて論述したが、その違いを理解できなければ、抑圧していた記憶の正確さを理解することもできず、過誤記憶false memoryを支持する人々の思惑通りになってしまう。

過誤記憶論争によって、さらに多くのトラウマ被害者が傷付かないためにも、この忘却と抑圧の違いを理解することが大切なのだ。

 過誤記憶については、アメリカで大きな問題となった。

性的虐待で娘に訴えられた父親が、娘の記憶は過誤記憶だとして訴えたのである。その夫婦は過誤記憶症候群基金(FMSF-False Memory Syndrome Foundation)という捏造された記憶によって子どもから告発された親を擁護する団体を作った。

その考えを支援する専門家もいるが、戦い続けている専門家もいる。『記憶を消す子供たち』の著者であるレノア・テアは、甦った記憶によって親を告発したアイリーン・フランクリンの検事側証人として立ち、様々な論文を出して擁護した。前半は優勢だったが、結局は敗北した。

それは捏造だったという結果ではなく、三〇年も前の出来事で証拠が不充分だっただけである。

 過誤記憶として騒ぎ立てる親やるコミに対して、社会レベルでの『記憶の隠蔽』謀議、として危険信号を発しているのは斉藤学である。彼は児童期性的虐待の研究によると、虚偽であった割合は二~七%だと述べている。
そして過誤記憶の騒ぎは、やっと声をあげ始めた被虐待者の小さな声を奪うことになるだろうと危惧している。しかし、続けて彼は言う。

このような無理な企てがいつまでも成功し続けるはずはない。
フェミニズムが反動の嵐を受けながらも、現代の女性たちが安心して“保守化”できるほどの成果を上げたように、家族の中で虐待され、緊張を強いられてきた者の声も当たり前のように受け入れられるようになるであろう。
(『封印された叫び』 一四〇ページ)


最近の虐待のニュースが増えているのを見ると、日本でも虐待が受け入れられつつあるのかとも思う。

私は、それだけ虐待が起こっているとして悲しむというよりは、やっと認識されて表に出てきたという思いで見ている。

自分が虐待をされたという記憶を思い出すことは、本人にとっても苦痛が伴うものである。自分の愛する親を批判することになるからだ。

もしそれが誤りだと言われたら、嘘をついてまで親を批判する自分を責めることになるだろう。

直接言われなくてもジャーナリストが過誤記憶を騒ぎ立てれば、記憶を甦らせた被虐待者は自責の念にかられてしまう。

 また、突然被虐待者として生きていかなければならなくなることも苦しい。
心的外傷を受けた人々に関する本を読めば特徴が書いてあり、それらの多くは自分に当てはまる。
自分はトラウマを持ち、問題のある、異質な存在なのだと自覚し、受け入れることは大変な作業である。

 そうしたことからも、甦った記憶の正誤を問うこと自体、検討違いではないかと私は考える。
もちろん、裁判になればその正誤は問われることになるだろう。しかし、その虐待を受けて傷付いた者が立ち直るためには、記憶の正誤は関係無い。
問題なのは、なぜそのような記憶を持つかであり、それと向き合い乗り越えていくことなのである。
記憶の正誤にばかり気を取られ、正しいと躍起になって主張しようとする間は、回復の段階に入ることはできないだろうまた、臨床家も裁判官ではないことを認識し、記憶の正誤に言及するのではなく、被害者の声に耳を傾け、苦しみを過去にする作業の手立てをしなければならない。

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