Wednesday, February 15, 2006

*ブリミアン・デイズ

アメリカでのブリミア研究。

最近の研究によるとブリミア(過食と拒食を繰返す食事障害)は脳内化学物質のバランスが生まれた時から良くないために起こるかも知れないと報告している。

ウオルター・ケイ博士(a professor of psychiatry at the Western Psychiatric Institute in Pittsburgh)によるとブリミアの危険性がある人を前もって発見出来るし、過食拒食のサイクルが発生する前に何らかの処置を施せる可能性を指摘している。

現在までにブリミアを起こす人の脳はセロトニンのレベルが正常値と異なっている事が分かっている。所でセロトニンは気分と関係があり強迫行為を起こす要因と考えられているのだが、このセロトニンを制御するプロザックがブリミア及び拒食症に過去数年処方されて中には成果を上げている例もある。

生まれた時はセロトニンに問題が無かったがその後の不規則な食事で変化を生じたか、あるいは生まれる前から問題があってブリミアになる傾向があるのかは分かっていない。

ケイ博士曰く、「多分食事障害の人は不規則な食事を開始するずっと前からセロトニンのレベルに不調があるのであろうと述べている。更なる研究で将来はブリミアを起こし易い人を特定したり、良い治療法を開発できるでしょう。」

クレアミスコ氏によれば「既にセロトニンに関しては多くの研究が為されているので特に驚く報告ではないが良いニュースである。食事障害は複雑な病気で精神、体両方がからんでいる。生物学的な面から捕えた今回の報告はある種の希望を与えるでしょう」

アメリカでは約五〇〇万人の人が食事障害に悩んでいて女性は全人口の五%、男性は約一%の割合だ。
拒食症は絶食をし過度の運動をする。ブリミアでは過食をしてその後に吐くか下剤で流し出す行為をする。
ミスコ氏によれば「患者は不規則な食事行為を空しくやる。生物学的なリンクが発見されれば今までの論争が一掃されるでしょう」

ケイ氏の研究グループは三一人の健康な女性と三〇人のブリミアを患って今は健康な食事に戻って少なくても一年間回復した女性を比べた。脊髄液を比較した所ブリミアから回復したグループに正常値以上の高いセロトニンのレベルが現れた。このグループは高レベルセロトニンに伴う症状即ち気分の落ち込みとか完全僻が多く現れた。

この研究の対象の女性は皆食事は正常にしているので食事方法のみがブリミアに悩んでいる人のセロトニンレベルの異常値を作るとは説明できない。
そうでは無く遺伝的特質がこのブリミアになり勝ちな人の高セロトニン値を形作っているかも知れない。

遺伝が原因か
今までの双子を比べた研究によるとブリミアと拒食症では遺伝が関係しているとしている。ケイ氏によると更にそれを裏付けるデーターがあり五年前に実施した拒食症の女性グループではセロトニン値が高く現れた。

セロトニンレベルの高い女性は何故食事障害になり易いかは、セロトニンが鬱状態、不安あるいは強迫観念を作り絶食により、セロトニンのレベルを下げる事が出来ると説明できる。セロトニンは食物中にあるアミノ酸の中のトリプトファンから作られる。

ケイ氏によれば患者の異常な食事行為は短期間安心を与える。しかしセロトニンが今度正常値より下がると不安、不調、衝動行為が湧き起こるため患者は暴食をしてセロトニンのレベルを高くしようとする。こうして彼等は決して捕まえる事が出来ない何かを追う事になる。


少年時代の貧困さ

青年が興味を持つものはいろいろあるが、此処で注目したいのはバーチャルな世界への傾斜、非現実的な世界への憧れだ。
わたし達の身のまわりには、実はさまざまな非現実的な作りもの(あるいは本物そっくりの作りもの)に満ちているが、其の世界に親和性が高いのはやはり若い世代だろう。

ゲーム・センターでのゲーム、コンピューターを使ったゲーム、携帯でもできるゲーム、まずゲームの世界は多彩だ。
映画などでも CGが盛んに使用されている。
いったい何が現実的なのか非現実なのか、現代社会は其の境界がかなり不明確になりつつある。

ひとたび内側に強固な内的自己を作った人においては、バーチャルな対象に接したとしても、其の内的自己は、対象に興味をもつにしても揺るぐことはないものだ
其れが外的世界に属するものであり、内的自己とは一線を画するものであることの認識を、何処か自然に行っているからだ。
ところが、小さい頃からこのバーチャルな世界に接してばかりいると、内的自己の形成其のものが、バーチャルな色彩を帯びやすくなってしまう。バーチャルな世界が多く内に折り込まれてしまうのだ。

この時、其の人の内的自己と外部世界との境界はゆるいものになるか。この意味から、多くのゲームはなるべく大人になってから楽しむべきだ。

当然のこと、人格はグニャグニャしたりフワフワしたりとルーズな様相を保つことになる。外から見たり接したりすると、それは自己中に見えなくもない。

其れは、自己がしっかりある自己中ではなく、リアルなものがピンとこないがための自己中なのだ。
世間知らずという見方もできなくはないかもしれないが、世間知らずという以前に、世間が人格に内在化されていないという感じなのだ。
リアルなものをあまり内に抱えもっていない時、青年は非現実的なものに近いところに住んでいる。
其れらに違和感をあまり覚えないからだ。此処から若い人の科学離れも起きてくる。

其の例を挙げるなら、超現実的なものとかオカルト的なものということになるか。あるいは超能力的なものや神秘的なものということにもなる。
ある点でこの世と、あの世や別の世界とが接近していると言えなくもないが、其の実、この世での実在性が乏しいのだ
これは言い換えれば、死の感覚が薄いと言えよう
もちろん誰でもが死をリアルに体験することはできない。わたし達は、生しか生きられないからだ。
死の感覚が弱い、つまり生の感覚も弱いことは、簡単にあちらの世界に行ってしまうことにも結びつく。
それなりの理由は何かあるのだろうが、あまりにも、良い意味での生への執着が無さ過ぎる
この世で何らかの不都合があったりすると、たちまちリセットして別の生を期待したり、少なくとも今から逃げ出したくなってしまう
この点からは、現代青年の人格形成において、脆さという特質が付け加わることになってくる。
人混みの中を人に肩をぶつけたりしながらまっすぐ歩く青年がいる。別に人柄が悪くてわざとぶつかっているわけではなさそうだ。
自分の身体と他者の身体とを何処でどう折り合わせていいのか、其の感覚が十分育っていないようなのだ

他人がいて自分がある
お互いが共存するためには、時に譲り合うことも必要になってくる。其処のところの感覚が身体化されていない。

これを私的な領野と公的な領野をどう共存させるかさせないかの問題と置き換えると、電車の中での若い女の化粧も納得して拝むことができる。彼女達の身体は公的な場所にあるのではなく、私的な領野の延長上に置かれているのだ。

世界の私的化が其処で起きている。もちろん強力な自己の世界があって、其れが公の場に進出しているのではない。どちらも薄くなり、かつ境界も薄くなっているのだ。
話しは化粧にとどまらない。携帯の車中での使用はもちろんのこと、音楽鑑賞や飲食なども含まれる。

それぞれもともとは然るべき場所で為される行為であった。其れが今や堂々と公の場所でも為されることになってきた。公の衰退だ。さすがに排泄行為や性的行為は、まだほとんど人目から隠されてはいるが、これとても危うい。

身体がバーチャルなものに浸されると、其の身体其のものの形態や特徴もまた浮遊するものとなる。
髪の毛を染めることは青年にとって常態化しているし、耳たぶに穴をあけたり、体のあちこちに穴をあけて何か金属を通したりなど、其の身体の加工の程度は勢いを増しているかに見える。

加工と言えば、昔から行われていた美容整形もますます盛んなようだ。プチ整形などと言って、其の軽さを特徴としている。

身体に強いこだわりをもっていそうに一見見えるが、其の実、身体性はむしろ希薄化している
いわば他者の眼差しに支配されやすい対他身体となっている。身体性の希薄化あるところ自我の希薄化があり、ひいては生の希薄化がある。

希薄化があちこちに見られるとはいえ、それは単に薄く引き伸ばされた自己があるのではない。其の一方で、自己への過剰な敏感さも存在する。何処かしら鈍感になった身体と、過敏になった身体とが重なり合っている。

何に対して過敏かというと、自己の尊厳の侵害に関わることに対してだ。透明でのっぺら坊になったかに見える現代青年の身体は、ある限界を越えると激しく反応する。俗に言うキレるというのもこの部類だ。

一見飄々とあまり余計なことに関わりをもたずにいるかと思えば、一定限度を越える刺激には強く反発する。公的な世界の自覚があまりしっかり内的に形成されていないところにもってきて、バーチャルなものに浸されていることからくる想像力の貧困さが浮上し、其の結果想像力というものがクッション機能を果たさずに、いきなり自らが陥しめられたと感じとり瞬間的に爆発する。自らの尊厳が侵されたと感じとるまでの経路が、あっさり短いのだ。

外界と心的内界との距離の無さはまた、内的欲望の充足のために、想像力による抑制を欠きつつ、外界の対象への強い執着となっても現れる内的自己の偏狭さとなる。
これがオタク化現象でもあるし、悪くするとストーカー行為や犯罪行為とも結びつく。

世界の一部分に一方的に強い執着を示し、他方其の対極には誇り高き自我がある。傷つくことを恐れる割に、人が傷ついていることには無頓着だ。
此処にも世界の私的化、それも狭小な私的化が窺える。
バーチャルな世界に身を浸すこと、もっと拡大して考えれば、テレビなど刺激を豊富に放出する機器に、常に幼小児期から接していると、外的刺激の操作やそれらへの対応に長けることはあっても、内発的なアイデアは枯渇しやすくなる。

加えて、自分の部屋など室内で生活することが多くなり、外で友だちと遊びまわる機会が減ったりすると、他者への共感性など、他者に差し向ける想像力が育ちにくい

想像力とは内的な積極性であり、生活が受動的に刺激を受け取ってばかりいるものだと、いよいよ貧しい自己中が出来上がってしまう。
万能感は保っているが。これがキレるという形で他者への攻撃に結びついたり、そういった傾向が集合するといじめ行動に結びついてしまったりする。想像力が乏しいと、異質なものへの寛容さも育ちにくいからだ。


子ども達と犯罪。

他者への想像力が貧困だとなると、それは同時に内的自己の実感も薄くなり、ひいては生きている身体感覚も浮遊しやすいものとなる。

其の時、他者の身体、他者の存在との間における間合いも不安定なものになる。そしてさらに、自ら自身との間合いも不確かなものになる。

先の携帯のところで述べたように、常に他者と携帯コミュニケーションを保ち、繋がりや絆の確認を行う。これは言い換えると、他者との関係で間合いがうまくとれていないことを意味する。常時其の隙間を埋めていないと落ち着かないのだ。
隙間を埋めるといえば、これから先のスケジュールを埋めようとすることも、この間合いがとれないことと関連する。

これから先の自分の時間に空白、空欄があることが耐え難いのであり、これは、自らの存在内部に隙間があることに気付く怖さが其の底にある。空間的にも時間的にもカラッポは怖いのだ。

一寸前に流行ったプリクラ現象も、これら間のとれなさを示している。一緒に撮った顔だらけの他者と一緒の写真で、専用のファイルをびっしり埋め尽くす。相手から情報を聞き出してアドレス帳を埋めていくのも同じだ。

交友関係が実際に広いわけでも何でもない。
自分の空虚さを、自分の内にある隙間を、何かで埋めておかなくては落ち着かないのだ。其処で自分の内側を、他人の顔や住所、電話番号やメールアドレスなどで埋め尽くすのだ。外部世界における隙間埋めと、内的自己にある隙間埋めを同時にやっていることになる。
こうして青年は、否が応でも他者依存他者志向他者による承認の程度を強めていく。

実際には、お互いの身体が不意に近づいたりすると、どう間をとったらいいのか分からずにドギマギしたりするくせに、他者でしか其の隙間を埋められなくなっている。

従って其処における他者とは、リアルな存在というよりも、バーチャルなゲーム・キャラクターあるいは記号的なもののようになっているのではないか。

例えば喧嘩しても、痛んでいる相手のリアルな身体に想像力が及ばず、あたかもゲームのように相手の身体を叩きつぶしてしまう
恐らくこれからの青年の犯す犯罪においては、然るべき理由が整って為されるというものではなく、不条理な、理由が不明確なものが増えると思われる。
相手が命をもったリアルな生身の人間ではなく、なんとなくまわりに蠢いているもので、しかも自分の尊厳を傷つける時、事件は起きる。

罪を犯す人においても、別にはっきりした自覚が備わっているのではなく、内的衝動や怒りや不全感を、単にぶつけ吐き出しただけとなる。

つまり、はっきりした自分が、くっきりとした姿をもつ他者に対して何かをするということが、成り立ちにくくなっている。間がもてない、其の間とはもちろん想像力で補わなければならない間だ。
そしてこの想像力は、小さい頃から大勢の他者と身近な仲間集団を作り、其処で共存の知恵を学びとっていく中で、培われるものだ。子ども達にとって、豊かな集団形成こそが、豊かな人格の形成に結びつくのだ。


二十一世紀に向けて。

二十世紀の後半に我が国が経験した未曾有と言ってよい経済成長の影響は、我が国の青年の人格形成を語る上で忘れてはならない。

一言で言えば豊かになったということだが、この豊かさは人の在り方をかなり変えたかに見える。
モノとカネ原理が幅を利かし、暮らしやすくなった反面、人と人との絆はむしろ薄くなった

貧しければお互いに助け合うことが共存の知恵でもあった。しかし豊かになると、別の共存の原理を探らねばならなくなる。表向きは別に助け合わなくとも、それぞれ自立して生活していけるからだ。
改めて人は他者とどのように共に生きていったらよいのか、其の方途を模索しているのが今ではないか。

こうした状況は、青年の人格形成に多大な影響を行使している。まず暮らしが豊かになったことで自分の部屋を与えられ、小遣いをたっぷり与えられ、しかも、テレビゲームを初め、一人でも遊べる機器が容易に手に入った。
それらは刺激に満ちており、あまり身体全体を使わず、また他者の存在を必ずしも必要とせずに、時を消費することを可能にした。
自分の気ままに、他者との関係で気まずくなったり傷ついたりすることなく、一応の達成感なり衝動の満足なりを得ることができる
他者との揉み合いをあまり経験せずに、好きなことを選び取りつつ内的欲求を満たしていく。

この状態の裏側として引き込もりなり不登校なり社会恐怖症、あるいはパラサイト現象などが出現しているが、大勢としては、多くの青年は伸び伸びと自分の世界を開拓しているようだ。

しかし、現代青年の人格形成には、やはり危うさや脆さが潜んでいるように思われる。現代は人と人との絆が薄くなったと指摘したが、これは同時に孤独の問題であり、また依存やどう共存するのかの問題でもある。
このいわば最先端の問題、課題に、現代青年が先頭を切って取り組んでいると言ってもよい。
いつの世でも、感受性に富んだ世代や人々が、社会の抱える課題や矛盾と真っ先に格闘するものだ。

人と人との絆を携帯などのツールで求め、其処にある隙間を埋めようとする。他者の眼差しをいつも意識し、なおかつ他者からの承認を常に求める。勢い、自らの身体も自己愛をもとにしつつ他者向け仕様に改め、時にいろいろな加工を其処に施す。
それでも他者との間合いがうまくとれず、またどう付き合ってよいのか迷い、自分の在り処を確認したいあまり、自分を中心とするネット状の存在保証関係を築き上げようとする。

目は他者なり外界なりに向きがちになり、それらへの対応に心を奪われがちになるため、じっくりと内的想像力を育てることが難しく、他者への共感性の発達は停滞してしまう。他方自意識や自尊心は、自己中心的生活をしてきたことからそれなりに保たれているため、他者の姿は時に、自らの大切なものを侵害したり妨害したりする厄介者と映る。

外の世界や公といったものが、人格の内側へとあまり効果的に折り込まれずに、結果、私的世界を公の世界へと持ち出してしまう。両者の境界は薄いものとなっており、ウチ、ソトのめりはりが効きにくい構造となっている。
めりはりが効かないということは即ち、内的自己の人格構造がゆるくなり、それを傍から見ればルーズに見えたり、軽く見えたり、浮遊しているように見えたりする。

本人達にあっては、不確実感、不安定感が強くなり、時にこだわりをもつものを見つけ、其処に一応自らを繋ぎとめて安定をはかろうとする。
しかし、いろいろなかたちで自分は他人とは違うことを主張しようと差別化する気持ちは理解できるが、少し離れて見ると、皆同じように見えてしまう。

内的自己の構造がゆるいということはまた、リアルなものの感覚が異なってきて、非現実的なバーチャルなものにひかれることとも関係している。場合によっては、オカルト的なものや超能力的なもの神秘的なものに引き寄せられる。彼岸と此岸の境もはっきりしなくなり、生と死の境界も定かではなくなる。
ネットで知り合うネット依存人格が集って、ネット情報を参考にネット心中をはかる。

別にけなしているわけではなく、この現代青年の危うさや脆さはまた、現代日本社会に生きる他の世代にも共通の問題だ。
今まさに自分というものを構築しつつある、まだソフトな状態にある青年世代に、最も社会の抱える課題が示されやすいのだ。

二十一世紀をどういう時代にするのか、人はどう生きていったらよいのか、青年達が人格の形成をかけて其の試練にまず晒されている。
今どきの若いものは、という前に、他の世代、特にこの社会を作ってきた大人達は、これからわたし達はどうあるべきか、それを現代青年のあり様をよく吟味してから自らの課題とすべきだ。

豊かな子ども時代を奪い、自然環境を破壊し、利益や効率のみを優先し、弱者を踏みつけにしたり切り捨てたりし、品のない姿を子ども達の前に晒してきた大人達の責任は重い
これらの事柄を改めつつ、これからは大人達が青年達の道標となるべく、自らの在り方を高めていくべきだろう。

其処にはかなり険しい道程が待ち受けているかもしれない。
鍵は、わたし達が日々生きている、其の身近な日常の中にこそあると思われる。高邁な理想を掲げても、それが身になっていなければ、口先だけでは意味がない。
ほんの些細な一寸したことの中に、多分其のきっかけがある。
そしてそれはまた多分、自分のまわりの人を大切にすることに関わりがあると思われる。ほんの一寸した其のようなことに気がまわるかどうか、其処が境目となりそうだ。


拒食、過食症は何故増え始めたのか? 米国での研究。

アメリカでは、女子学生の五~九%の人が食行動異常に苦しんでいる。
こうした無残な病気が話題になり始めた理由のひとつは、映画女優のジェーン、フォレンダ、歌手のカレン、カーペンター、最近ではダイアナ妃などの有名女優たちの摂食障害が、るコミで取り上げられたためだ。

ナバのミーティングに出ると、メンバーたちの様々な性的活動を聞くことになる。

男性の隣に座っただけで、「頬がこわばり、手足が冷たくなる」と訴える人や、性的話題にいっさい耳をふさぎたいという素振りを見せるメンバーがいるかと思うと、寂しくて、夜の街をさまよい歩くうち男に声をかけられて、ついて行ってしまった、という体験を語る者もいる。

脳が二つあればそれに越した事はないが、脊髄の頂上にある脳と腸にある別の脳の関係に於いてもそう言える。腸にある第二の脳は腸神経系(enteric nervous system )と呼ばれている。

「第二の脳」の著者でありコロンビア大学の解剖学と細胞生物学の教授であるマイケル・ガーション氏は、自身の経験から、「私が国立衛生研究所に研究助成金の件についてたずねる時はわたしの腸も敏感になる」と言う。

事実、スピーチ前の、そわそわした時の胃腸の悪い感覚や、試験の前の晩に決まって下痢を経験した者には、我々の体には二つの神経系があると気づく
二つの脳の関係は心と体の両面で問題を起こす。現に神経症、鬱病、過敏性腸症候群(irritable bowel syndrome)、胃潰瘍、パーキンソン病等は心と消化器の両方に症状が現れる。

「多くの神経症や鬱病の患者では胃腸器に変調を来たしている」とカリフォルニア大学の生理学と精神医学の教授であるエメラン・メイヤー氏が言う。

一つの神経系が別の神経系を悪化させたり癒したりする。
例えば、抗鬱剤は処方された人の四人に一人が胃にむかつきを起こす
胃の辺りの緊張感は、緊迫した場面で体内から大量に分泌されたストレスホルモンにより引き起こされる。またストレスは食道内にある神経を刺激して、咽喉が詰まった感じになる。

ガーション氏は神経胃腸学と言う比較的新しい学問を研究している学者で、一九九六年に第二の脳と言う言葉を作り出している。
腸神経系(enteric nervous system )は食道から胃、小腸、大腸に至るまでの全ての消化に関わっている。この第二の脳、あるいは小さな脳は独立して存在し、脳と同じように精巧な自律的神経回路を持ち、神経伝達物質と蛋白で情報を伝達をしている。

「神様は消化器をコントロールするのに遠く離れた脳であるより、消化器の直ぐ横に神経系を置いた方が有利と考えているようだ」とオハイオ大学の生理学、細胞生物学教授のジャッキー・ウッド氏は言う。

「脳とか神経系がする重要な任務は動きをコントロールすることだ。消化器にあるもう一つの脳はその中に、あらゆる環境下の腸の動きを書いたプログラムを沢山保存している。消化器神経系はその消化の状態により、どのプログラムを使うか決定しる」とウッド氏は言う。

例えば昼飯を抜かすと消化器の動きは静かになる。
昼飯を食べると小腸の収縮が始まり、食べ物を消化酵素と混ぜ合わせ、更に奥へ送り込む。
もしその食物が腐っていた場合は、食物を逆向きに送る収縮が起きる。小腸にあったものは全て胃に逆流し、食道を通って口から吐き出す。

どの場合も胃腸は自ら事態を判定し、どのような行動を起こすか決定し反射運動をする。
胃腸は圧力を検出し消化の進行を見ている。栄養素、酸、塩分を測定する。胃腸は丁度小さな実験室だ」とガーション氏は言う。

腸システムなる言葉は一九二一年、イギリスのラングリー医師が最初に言い出している。彼によれば、腸システムとは副交感神経系、交感神経系と並ぶもう一つの自律神経系であるとした。すると腸システムは他の二つの交感神経に並列するものになる。

問題は心が先か体が先かである。

腸神経系も中央神経系もその系を動かすのに同じセロトニンと言う道具を使う。
セロトニンは脳に作用して幸福感を作り出すから、SSRIと呼ばれるセロトニンのレベルを上げる薬剤が抗鬱剤として使われている。

しかし、九五%の体内セロトニンは消化器内に存在し、神経伝達物質であると同時にシグナルのメカニズムを構成している。
消化は腸クロマフィン細胞(enterochromaffin cell )が小腸の壁にセロトニンを吹き付けることから始まる。この壁面には少なくても七種類のセロトニン受容体が存在し、情報は神経細胞を通って伝達され、消化酵素が分泌され、食物を腸の奥へと移動させる。

セロトニンはまた脳との仲介役もし、脳に消化管の状態を逐一報告する。このコミュニケーションは殆ど一方的で、九〇%が腸から脳に向けられている。

腸からのメッセージは大抵気持ちの良いものではない。乳癌に使われるドクソルビシン(doxorubicin)と言う薬があるが、この薬は腸でセロトニンの分泌を促すために、吐き気や嘔吐を起こす。

セロトニンは更に過敏性腸症候群(irritable bowel syndrome)に関わっていると言われている。過敏性腸症候群とは腹痛、痙攣、膨満感、下痢と便秘の相互症状を引き起こす慢性の症状であるが、今まで心身症に扱われて来た。

「過敏性腸症候群の患者を検査すると、大抵問題を発見しません」とモー氏は言う。
しかし過敏性腸症候群は鬱状態と同じく、セロトニンレベルの変化により引き起こされているのが分った。この場合、セロトニンが足りないのではなく、あり過ぎて問題が起きている。

健康な人ではセロトニンが小腸で分泌され、腸の反射運動が始まると余ったセロトニンはセロトニン搬送体(serotonin transporter, or SERT)により腸から汲みだされる
このセロトニン搬送体は腸壁裏側にある細胞で発見される。過敏性腸症候群の人はセロトニン搬送体を十分持っていないために、セロトニンが溢れて下痢を起こす。更に、過剰なセロトニンは腸のセロトニン受容体を圧倒し、今度は便秘を引き起こす。

ガーション氏がセロトニン搬送体を持たないネズミを使った実験では、ネズミが人間の過敏性腸症候群と同じような症状を示している。

そこで、腸抗鬱剤と称する新しいセロトニン薬が出て来て、慢性的な消化器病の解決に役立ち始めている。

もう一つのメカニズムで腸の不調の原因となるものに、腸のマスト細胞(mast cell)システムがある。このシステムは免疫反応に重要な役割をしている。

強烈なストレスが襲った時や精神的外傷を受けた時に、腸の内腔(lumen)(食物が消化されている部屋)と他の腸の境目が壊れてしまう。すると病原菌が内部に入り込む危険性が高まる。すると脳はマスト細胞を活性化し、腸壁の免疫機能を活発化しようとするとウッド氏は言う。

マスト細胞はヒスタミン及び他の炎症性物質を放出して、腸システムを刺激するから下痢をする。下痢は有害菌を強制的に体外に放出する効果がある。

マスト細胞により炎症を引き起こされた胃腸は過敏になる。ストレスを常に受けて慢性的にマスト細胞が増殖していると事態は悪化する

動物では炎症が感覚神経細胞を刺激し、一種の過剰反応を起こす。「慢性胃腸炎では腸内で注意欠陥障害(attention deficit disorder )のような状態になっているのではと考えているのだ」とモー氏は言う。

ガーション氏はこの胃腸障害の原因はやはり生理機能に問題があると言う。
「過敏性腸症候群を患う人の腸の細胞に欠陥を発見しました。もしあなたが下痢で血便をした場合、気持ちが落ち込むでしょう」とガーション氏は言う。

でも心理も影響しているのは次の実験で明らかだ。
動物を使った最近の実験では、子供の頃に激しいストレスを経験すると、その後慢性胃腸炎を起こすのが分っている。
「ネズミを水に囲まれた台の上にのせると、ネズミは下痢の症状を示す。これはネズミにとって、とてもストレスが強い条件なのだね」とメイヤー氏は言う。

他の実験では、子供のねずみが母親から強制的に離されると、腸壁を作っている細胞が弱くなり、バクテリアが通過しやすくなり、免疫細胞を活発化させるとしている。

「これはネズミが適応しようとしているのだ。ネズミがストレスの強い環境に生まれると、より用心深くなり、将来起きるストレスに活発に反応しようとするわけだ」とメイヤー氏は言う。

メイヤー氏が治療する慢性胃腸炎の患者の七〇%までが子供の頃にトラウマ(両親の離婚、慢性の病気、親の死)を経験している。
「各個人の遺伝的背景と幼少期の過酷な体験が、ストレスに直面した時に消化器が過剰に反応しやすくしている」と彼は言う。


誰のためのいい子だったか?

過食、拒食症では、腎臓の濃縮能力に障害が生じ、すぐに脱水状態を起こしたり、浮腫を生じたりする。

これらの障害は、栄養失調の子供について報告されたものと同じである。

嘔吐によってカリウムと塩化物が失われると、カリウムの尿中への排泄がかえって促進され、低カリウム血がいっそう促進される。血清中のカリウム濃度が強度に低下すると、骨格筋、平滑筋、心筋が影響を受け、筋肉低下、胃アトニー、心臓の不整脈が生じる。

神経性無食欲症者では除脈低血圧は普通にみられる。
過食、拒食によって血清のカリウムがある程度減少すると、心筋の収縮能力が低下して危険な不整脈や不全収縮が生じる。自己誘発嘔吐の習慣を持った過食症者の突然死のほとんどは、これによってもたらされる。

神経性無食欲症では貧血、白血球減少が高頻度に見られ、血小板減少も生じる。骨髄の脂肪組織の減少にもかかわらず、免疫機能には低下が見られない。

歯牙の破損は酷く、切歯内側のエナメル質の崩壊をきたしていることが多いが、これは慢性的な嘔吐により、胃酸にさらされるためである。

脱水状態にある神経性無食欲症者では、唾液の分泌量も減少しており、これがエナメル質の浸食をいっそう促進する。

過食、拒食症という病気を分かっているつもりだった。
いつも良い子でいる、親の期待を背負い続ける子供たちが、親の期待に答えた後、自分は何をしてよいのか、何をやってきたのか分からなくなってしまう。

学歴社会となってしまった今、親が子供に良い成績を取らせ、良い大学に入れたい、と思うのはもっともだと思う。
しかし、期待することによって子供にどれだけの負担がかかっているか、分かってあげることも親の大切な仕事ではないか?と思った。今子供は、どんな気持ちで勉強しているのか?

有名進学校に入れることが、本当は誰の意志なのかを真剣に考えてあげてほしい。

子供の意志ではなく、親の意志で受験勉強をしている子供たちにとって、目的をはたした後行き場を失い、遊び方が分からないと気づいてからでは遅い
毎日が孤独との戦い自分を否定して生きて行く辛さ過食、拒食症という病気を軽い病気と考えていた頃が、今となっては懐かしい。

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