Wednesday, February 15, 2006

*戸惑いと絶望の繰り返し

見えない道。
食べ物が豊富にある日本でも飢餓状態にある人がいると言えると思う。それは摂食障害の症状によって十分な栄養が体内に摂りいれられないために、低栄養状態になっている人である。
最近、摂食障害にある人が増えてきており、死亡率は表面化しているものだけで九%もあるという。そして発病は思春期ぐらいの微妙な年頃であることが多い。

摂食障害とは、字の通り、食べることに何らかの障害があることである。大きく分けて過食症と拒食症とがあるが、拒食症は昔から有名だったのに対し、過食症のことが知られてきたのは最近のことである。わりと拒食と過食は正反対のものだと思われがちだがこれらは紙一重といっても過言ではない。拒食症だけという人は珍しく、最初は拒食症でも過食症に移行していくケースが多い。摂食障害のほとんどの人がその両方を経験し、両方を繰り返すということだ。

拒食症は、わたしがそうだが、食欲がなくなり、物を食べようとしても食べることができず、骨と皮だけのような状態になり、ひどい場合には死にいたることも。

過食のみはひたすらに食べ、食べるのが止まらない場合は一気に体重増加。過食の合間に絶食を繰り返したり、激しい運動によって体型を維持する人もいる。

過食嘔吐は、一番多いが、食べ過ぎた分を吐くという感じで体型の変化はあまり見られない。健康体だと勘違いされやすいが、実は嘔吐によって体は弱っている。

過食嘔吐+拒食も多い。食事は全て過食。嘔吐が徹底的で、胃は常に空腹状態。一日中過食嘔吐を繰り返す人もいる。体は拒食症のようにガリガリに痩せていき、嘔吐による合併症もひどい。

低栄養状態や痩せすぎあるいは太りすぎが体にとって悪いというのは周知の通りである。また嘔吐は食べる→お腹いっぱい→太っちゃう→罪悪感→吐く、のサイクルで起こる。吐くことで食べた分を打ち消そうとするのだが、その裏には重大な問題が潜んでいる。電解質異常、パレット食道、逆ぜん動、月経停止、虫歯、体の等だ。

基本的には極端なやせたい願望からの無理なダイエットが引き金であろう。
「痩せたい」という強い気持ちからまずは拒食症になる。炭水化物、油脂、砂糖類を一切口にしなくなったり、果ては絶食したり。

こういうことを続けると、当然体はやせ衰えていき、いわば飢餓状態になる。だが体のほうはたまったもんじゃない。生き物としての本能が働いて弱った体を助けようとし、脳からの「食べろ」というSOS信号を感じ取り、体内に食べ物を採りこむ。次の飢餓の訪れに備えているかのごとく、何でもかんでもひたすらに食べる。
過食症へ移行するのだ。
散々過食した後、ふと我に返る。そして罪悪感に悩まされる。人間にとって食べるとは、基本的欲求であり不可欠なものであるのに、食べる=太る=ダメなこと、と思い込んでしまっている。
そこで食べた罪に対して嘔吐や絶食という代償行為に出る。

強い意志で行うわけだが、そうするとまた胃は空っぽ、飢餓状態になる。すると本能的欲求から再び食行動に移る。しかしまた罪悪感が起こって代償の行為をする、と脅威の悪循環が成立してしまう。

この極端なまでの痩せたい願望は、日本社会の痩せ賛美風潮ではないかと思う。
テレビのバラエティ番組などでは太っている人は馬鹿にされる役だし、ダイエット番組やワイドショーでは痩せ=美しい、の意識を国民に植え付けている。
雑誌なんかにおいても同じようなことが言える。
メディア・マスコミは社会的影響力や責任が極めて大きいのだから、きちんとした良識を持たなければいけない。
 
もうひとつ見方がある。人間という生き物は、いくつになっても根底に「そのままの私でも愛してくれている」という大きな安心感をもって生きている。
これは乳幼児期の子ども時代に、周りからの愛情を受けて形成されるものだ。

ところがこの「そのままの私でも愛してくれている」ということがわからないまま育ってしまうと、まずは自分が「生きていること」に意味がある、「存在そのものが愛されている」ということに気付けない。
自分の存在価値がわからない、存在そのものを愛してもらっている実感がわかない、不安、物足りなさ、そんな思いが心を支配する。
だから異常なまでに外見にこだわり、愛されること、好かれることに執着し、無意識のうちにいろいろな形で自分に注意を向けようとする。
摂食障害の人は自らの体を痛めつけることで周りに心配してもらおうとしているのだ。そして愛情不足から生じる心の隙間を埋めるものが、過食症の人の場合は食べ物だったということだ。

こうして見ると、摂食障害は、心の回復が必要な病気ともいえる。
とてつもない自己嫌悪に陥っている、苦しんでいる本人に、周りの人たちがしてあげられることは????
まずはその人の状態をよく理解し、どんな○○でもいいんだよ。愛しているよ、という気持ちを態度でもって表現し、このままの私でいいんだ。どんな私でも愛してもらえるんだ、という「愛されている実感」を持ってもらうことである。
このような、条件の愛で安心感を与えてあげられる人、それはなんと言ってもその人の家族、あえて言うならばその人の親でだ。
使者や教師やカウンセラーという立場は、その人にとってはあくまで他人であるので、無条件な愛は感じ取レナ意思、又与えては職業人として不適格だ。
しかし、できることはたくさんあると思う。だからわたしは書いているし、塾の講師も兼ねているし、子ども会の世話役でもある。

まずはその子が摂食障害であることに気づいてあげる。
そして本人の親に伝え、摂食障害についての正しい知識を知ってもらい、最善の治療法を一緒に考えていく。決して焦ったりせずに、大きな愛でもって受け入れる。

難しいが簡単、単純で複雑、でも獣や鳥でさえ行う基本的本能な筈だ。

わたしはまだ諦めない。
中日新聞、一人でやるのは危険というが、じゃあ、皆で押し付けあって、何もしなかった結果であるこの現実をどうする!!!?
答えは見えない、が、見つけて見せる。


今の若いこって?
自傷行為者が多い。
特にこの前に日曜日は、二学期を前にして、現実逃避を図った自殺未遂者が多かった。
必ず、未遂、なのだ。
涙
こんな気持ちだろう。
そんなに厭なのか???
わたしは学校嫌いだったけど、生徒会やらナンやらで忙しく、自殺未遂してる暇はなかったが。もう直ぐ文化祭、体育大会だ。滅茶忙しいじゃないか。
青春じゃないか!? 楽しかったぞ!? 彼氏も友達もいないのか!?
寂しい若者が増えたようだなあ。

文化祭の出し物で、眼球こんなん創ったり。

お化け屋敷で彼氏に抱きついたり。後夜祭で結ばれたり。
嗚呼~~~青春!!!
したけどなあ。

リスカ、アムカは何度も書いたので解説しないが、欲求不満や不安のはけ口だ。
子供の頃のように、何にも要求されず、唯可愛がられたあの頃に戻りたい、よいう愛情過多の子。
逆に愛された記憶がなくて、いつも怯えていて、その怯えが何時までたっても消えない子。
そこそこ普通のいい子やってて、実は其れが物凄い無理だっだってことに本人も親も気付かない子。
色々いる。皆不幸であり、幸福でもある。

イラクじゃそんなこといえない。言ってられない。アフガン然り。マンハッタン然り。北京然り。
比較するなっての、なあ。だけど、貧富というか、生活の基準が余りに違いすぎて、困惑する。
わたしが訪れた国はどこも、その日一日三食食べられ、寝床があり、家族に怪我がなければそれで幸せって感じだった。
粗末な食事がご馳走で、精一杯のもてなしだった。嬉しかった。楽しかった。満足って気分を味わえた。日本の良さも分かった。

……筈だったが、日本のよさって何? 今の日本のよさって、何処にある?

もう分からない。
わたしだって、甘えてた頃は過食嘔吐してた。食べ物を粗末にした。当に便所に食物を捨てていた。チューイングは今もやってしまう。吐くのが怖くて、知らないものと食べるとき、嚥下する勇気がない。
わたしの拒食は続く。
わたしの自傷行為も続く。
何時止まるかわからない。

でも、胃から吐くよりはチューイングのほうがましだ。
切腹するけど、マニアじゃない。赤チンで誤魔化さない。ちゃんと刺す。
だから困るのか???
まあ、少しずつ上へ向いていってる。
少なくとも、普通人に見せかけることはできる。
多少痩せ型ってだけで、病気とは誰も思わない。思っていても言われない。
前はコンビニ来店拒否されるくらい、やせて気色悪かった。

161センチで23キロだもんね、気色イわな。
今は体脂肪八%~10%で安定。
此れでいいと思ってる。
胸もケツもないけど、ビキニも似合わないけど、不感症だけど、H大嫌いだけど、前よりはいい。

でも戻されてしまった。此処に。
医師曰く「君は多分、大学のプレしゃーで嘔吐再発するよ」とか。
かも知れない。チュ-イングが増えた。拒食気味。明らかに奇妙な食生活。

やっぱわたしは病気だ。精神の。血液検査に数値ではっきり出ている通り。


Wrist-cutting syndrome。
病室これは自分を傷つける自傷行為の中でも、特に刃物で手首を切る行為のことを言う。1960年代にアメリカで大流行し、それが世界的に拡がった。
リストカットに付随する症状としては、神経症、摂食障害、薬物依存、引きこもり、性的逸脱、鬱病、などがあり、境界例と診断されるケースが多い。
類似の自傷行為として分裂病の末期症状によるものなどがあるが、これは幻覚や妄想によって引き起こされるもので、自傷内容としては非常に凄惨で残酷なものが多い。

リストカットは主に十代から二十代の若者に多く見られ、中でも特に未婚の女性に多く見られる。傷のほとんどは手首の内側で、1~3回試みた傷が多い。
手首の他には、腕、足、顔、腹部などを切ることもある。
リストカットは繰り返されることが多く、習慣化する傾向があるが、その割りには死に至るケースは少ない。

どのような場所でリストカットを行なうのかというと、人前で実行するケースは少ないようで、自宅の部屋などで一人で実行する事が多い。
治療については、支持的な精神療法が効果があり、ほとんどの症例で自傷行為は治っている……と、医学界では発表されている。

馬鹿にすンじゃねえええええ~~~!!!

治ンねえよ!

原因はなにかと言うと、境界例の原因そのものがある。
つまり分離不安。乳幼児期のような母親との一体感を求めるのが、そういった愛情対象が失われたと思ったときに、リストカットという行動化が発生する。
たとえば「理解してもらえなかった」とか「裏切られたと思った」とか、そういったささいな出来事をきっかけとして、手首を切ったりする。

その背後には強い見捨てられ感や分離不安が存在する。
これは不安定な母子関係によって、精神的な乳離れが出来ないままに成長したことによる。
そして、こういった分離不安は直接的な形で現われるのではなくて、分離不安に対する防衛機制という形で現われる。この防衛機制としては主に四つのパターンが想定されている。

あくまでも医学界からの見解だ。

本人にとっては、なぜ手首を切るのかという動機ははっきりと意識されることはなく、ただやむにやまれずにリストカットに及ぶというケースが多い。

ヒステリー機制によるリストカット。

母親や周囲の人たちの注目を集めようとして、リストカットに及ぶものだ。
退行の論理と言われ、母親や周囲の人たちから赤ん坊のように扱ってもらいたいという願望が潜んでいる。
そして、乳幼児期のような、自分と他人の区別のないような一体感を得ようとする。
しかし、当然のことながら、現実にはそんな願望は叶わないので、本人は「誰も自分のことを分かってくれない」と勝手に傷ついて、強い喪失感に襲われる。
同時に、このような愛情対象を失ってしまったという喪失感に堪えられずに、何とか愛情対象を取り戻すことを試みる。
そして、手首などを切ることで、母親や周囲の人たちを心配させたり困らせたりして、周囲の関心を自分だけに釘付けにしようとする。
しかし、みんなの関心を集めようという本当の狙いはあまり意識されことは無く、本人の意識としては傷ついたことによって、やり場のない気持ちでリストカットする。
或いは、何とかして自分の気持ちを分かってもらいたいという、その一心で手首を切る。ただ、本人は強い見捨てられ感を潜在的に持っているので、些細な出来事がきっかけとなって、すぐにリストカットに及ぶ。

こうした自虐的な行動によって周囲の人をコントロールしようとする試みは、リストカットだけではなくて、拒食症などにも見られる。
食事をとらないことで親を心配させ、そのような形で親をコントロールしようとするのだ。
そして赤ん坊の頃のような、母親と一体となった世界を再現しようとする。
親が心配して、何とか食事を食べさせようとすればするほど、狙いが的中したことになり、ますます症状が固定したものになっていく。
かと言って放っておくわけにいかず、非常に難しい状況が出現する。
本人としては、本当の狙いは無意識の世界に追いやられているため、ただどういうわけか食べる気になれなくて、そのことで悩む。あるいは逆に、痩せることが自分の中で不自然なまでに美化されもする。

リストカットを何回も繰り返していると、やがて周囲の人はその演技性に気付くようになり、「またか」と言うふうに、だんだんと関心を持たなくなっていく。
そこで、他人との一体感を得るために別の心配してくれる人を探し出して、その人に分かるようにしてリストカットする。
その人が驚いて大騒ぎしてくれればいいのだ。本気で心配してくれればいいのだ。
本人にとって、心配してくれる人というのは自分のことを分かってくれる、非常にありがたい存在だから。つまり心配される=理解される、と言う図式になっている。
因ってもし誰も心配してくれる人がいなくなったら、本人は本当に絶望する。
本当に自殺してしまうことがありますので要注意。

手首の人格化によるリストカット

これは自分の手首を親などに見立てて、自分を見捨てた事への怒りをぶつけるもので、この怒りが自分の手首ではなくて、直接親にぶつけられた場合は家庭内暴力という形になるのが、怒りを外に向けることが出来ずに自分自身に向けたりすると、リストカットなどの自傷行為となる。
だから、女性の方がリストカットをする人が多い原因は、女性の方が男性よりも攻撃性を外に向けにくいということが関係しているといわれる。
男性なら親を殴るがを、女性の場合にはそういう派手なことはやりにくく、攻撃性が内向し、手首を憎い母親などに見立てて、何度も切り刻んだりする。そして、このような屈折した形ではあっても、攻撃性が発散されることになり、ある種の精神的な開放感を得ることが出来る訳だ。
また手首は、憎い親を表わしているだけではなくて、自分自身を表わしていることもある。
つまり、親から見捨てられてしまうような、なんの価値もない自分自身を手首に映し出して切り刻むのだ。
これは、見捨てられて敗北者となった自分自身を罰するという、自己処罰の行為。自己処罰は身体から悪い血を抜くという意味をも持ち、手首からぼたぼたと流れ出る赤い血が、愛されることのない醜い自分を象徴してもいる。なので悪い血を外に出すことで、精神的な解放感を得る。

自我機能を回復するためのリストカット

見捨てられ感から来る空虚さが高じてくると、自分が自分でないような感覚と言いうか、自分が非現実的な世界にいるように感じられてくることがある。
このような精神状態から「我に返る」ため、手首を切ることもある。
もっと進んで解離状態となり、催眠術にかかったようなトランス状態から手首を切ることもある。そして、血の流れる出る手首を見て初めて我に返る。
その後は、すべてをやり終えたような、非常に安らかな精神状態となり、まるで満ち足りたような満足感を表現してみせる。
後で本人に手首を切ったときの状況について聞いても、トランス状態にあったために何も覚えていない。
人によっては手首を切るのではなくて、タバコの火を身体に押しつけることで我に返ることもある。

中にはわたしのような切腹マニアもおり、我々は実際に切腹するわけではなくて、空想の中で切腹せざるを得ないような極限状態を想像し、エクスタシーに浸る。
敵に攻められ、炎と煙に包まれ、もはやこれまでという場面を思い描がく。
単なるマニアは、腹にサラシを巻いて、赤チンを垂らし、臨場感を出しながらオモチャの刀などで腹を切って、極限状態の快感を味わう。
わたしは実際にやる。
リスカ人の場合には、このような極限状態への自己陶酔が、無意識レベルで行なわれている。
切腹マニアたちは、空想と現実の区別がついているが、リスカする人たちは、空想ではなくて現実にこの世から見捨てられてしまったように思い込んでいる。
だから現実世界で本当に手首を切る。
手首を切った時には、切腹マニアよりもずっと大きな快感が得られる。
このような、リスカという極限状態への自己陶酔も、自分が自分であることを確認手段となっている。

このような自分自身を取り戻そうとする試みは、自分の存在感が希薄になった時に、手首の傷痕について周囲の人に語るという形で現われる。
手首の傷だけが、自分が自分であることを証明する唯一の証拠となっている。
だから、手首にいくつも刻まれた傷痕に、精神的に依存したような状態になっている。
勲章を誇りに思うように、非常に屈折した形で、傷痕を精神的な苦しみから生み出された勲章だと見せびらかす。
また、医師から処方されたたくさんの抗精神薬に心理的にしがみつくことにより、まるで収集家が自慢のコレクションを披露するように、薬の名前を周囲の人に語る。薬自慢だ。
本人にとっては、傷痕や薬を誇示することが、精神的な空虚さに対抗するための唯一の手段であり、心の拠り所ともなっている。周囲の人から見ると、不幸を自慢しているようなわざとらしさを感じるが、本人にとっては居たたまれない行為なのだ。

自己処罰は、一方で自分を見捨てようとする親に忠実であろうとする意味もある。つまり、親が自分を見捨てようとしているのだから、その期待に応えて、自分でも自分を見捨てようとするのです。そして、手首(自分自身を表わす)を切ることで、見捨てようとしている親の考えを実現するのだ。
そして、自虐行為によって、親との一体感を得ようとする。

偶に手首がわたしに話し掛ける。

 私は、あなたの手首です。
 私だって生きたいんです。
 これ以上私を切らないで下さい。
 私の面倒を見てくれるのは、この世にあなたしかいないんです。
 お願いです、私をもっと大切にしてください。
 私だって、あなたに愛されたいんです。
 どうか私を見捨てないで下さい。
 私だって生きたいんです。
 もっとあなたに愛されたいんです。

もし手首を切りたいという衝動に駆られて、自分でもどうしようもなくなったら、冷蔵庫から氷を一個取り出して、掌の中で力一杯握りしめてみましょう!
その冷たさから来る痛みが、自虐的な攻撃衝動を中和してくれることでしょう。
リストカットの患者を安易に入院させると、それが母親や周囲の人との物理的な分離を招くことになり、愛情対象を取り戻そうとして病院内でリストカットが頻発する。
今日のりかちゃんだ。
毎日何人もの患者が手首を切ったりすると、いちいち外科に回していたのでは間に合わなくなり、精神科医が自分で手首の縫合手術をすることもある。だから精神科医なのに縫合がやたらとうまいい師がいる。

否認と逃避からのリストカットは、分離不安に直面するのを避けることを目的とする。
何かの拍子に見捨てられ感に襲われた時に、リストカットをすることで、そういった辛い思いを振り払い、思考回路から切り離そうとするのだ。

この四つは、単独で現われることもあり、複数の動機が混合した形で現われることもある。
これらの防衛機制の背後に潜んでいるのは、愛情対象の喪失であり、分離不安から来る精神的な自立への拒絶。または精神的な乳離れへの拒絶。
リスカ人は、成育過程で母親との関係が不安定だったために、自分が愛されて受け入れられているんだという確信を持つことが出来ず、常に見捨てられるのではないかという不安を抱えている。
因って精神的な乳離れをしろと言っても、それは本人にとっては激しい不安や恐怖感を伴い、簡単ではない。

あ~~~たらたらと、差し入れの本を憶えるほど読んで、一気にブラインドタッチ。
一時間でやめる。百円もするのだ。ネット接続はうまくいかなかった。というか、できたが禁止された。
当たり前だ。院内情報垂れ流しになる。

疑われてンなああ~~~~わたし。


Le ressentiment~不満
拒食症は、過食症とともに、神経性の摂食障害とされる。かつて器質性とされた。だが、現在では、そうでないことが実証されている。拒食症も過食症も、純粋な精神的病気だ。

過食症とは、単に食べ過ぎて太ることではない。過食嘔吐症患者は、やけ食いした後に、食べたものを全部吐く。だから、拒食と過食は一見正反対の現象のようだが、実は同じ摂食拒否の二つの症状に過ぎない。
拒食は、読み方を変えずに、巨食と書き換えることができるし、過食も、読み方を変えずに、寡食と書き換えることができる。実際、拒食期と過食期を交互に繰り返す患者が多い。

拒食症の原因は何だろうか。摂食障害は、思春期から二十才代の女性に多い。だから、拒食や嘔吐は、スタイルを気にする若い女性が実践しているダイエットと誤解されやすい。
しかし、肥満度と拒食症発生率との間には相関性はない。
太っているから食べない、というのは、単なる口実だ。
初めから痩せている女性の場合、この言い訳は使えないので、「食べると眠くなって、頭が冴えない」といった言い訳で、拒食症をカムフラージュしようとする。

戦争に反対してハンガーストライキをする人は、食べ物の受け入れを拒否することによって、戦争の受け入れの拒否を、身をもって示している。
拒食症はハンガーストライキによく似ている。
違いは、ハンガーストライキの実行者が、何に抗議しているのかを明確に意識しているのに対して、拒食症患者はそうではないというところにある。
意識したがらないといった方が正確である。
何故拒食症患者たちが、「ダイエットのため」などといった世間受けする口実で、真の動機をカムフラージュする必要があるのか。

拒食症や過食症はちょっとしたことから発病する。
過食症は、例えば、失恋がきっかけで起きる。満たされない愛への渇望を満たそうとするかのごとく、失恋した人はやけ食いを続ける。
そして冷蔵庫を空にするぐらい食べたあげく、それをすべて吐いてしまう。
それは、相手に受け入れてもらおうとする自分の想いが、相手に拒否され、突き返され、無惨な姿になったことの象徴的反復だ。
過食期の摂食障害者は、抑鬱的な自己嫌悪に陥り、今にも自殺しそうな感情状態にあるが、それは、過食嘔吐が、自分の挫折を認める行為だからといえないか。

もし真の自尊心のある女性なら、ふられても、涙を流して卑屈になったりしない。自分を拒否して自分の価値を貶めた相手を拒否し返し、自尊心を保とうとする。
「何だ、あんな男、たいしてハンサムでもないし」と相手の欠陥を見つけて、相手の価値を引き下げ、究極的には「私はもともと彼氏なんて欲しくないんだ」と無欲を装って開き直り、傷ついた自己を防衛しようとする。

拒食症とは、拒否を拒否し返す象徴的報復であり、ルサンチマンである。

ressentimentはフランス語の医学用語でニーチェが唱えた概念だ。
もともと恨みや憎しみが心の中にこもって鬱屈した状態をいう言葉だが、ニーチェはこれを弱い者への思いやりや自己犠牲を説く、平等主義的な道徳の起源を説明するために用いた。
彼によればキリスト教道徳や、そこから生まれた近代市民社会のヒューマニズムや人権の思想は、弱者の強者に対する恨みや復讐心を道徳として表した、奴隷の道徳なのである。
この延長上にある社会主義の思想も、このような奴隷道徳の一部にほかならないと考えられる。
ニーチェはこれに対して強者の道徳、貴族的な誇りや勇気を讃える戦士の道徳、君主の道徳を対置した。ニーチェ「道徳の系譜」より。
しかしこれは結局ファシズムによって利用される結果にもなった。

ressentimentは、自らを傷つけないために傷つける自傷症の一種。自尊心が防衛されるがゆえに、拒食期の摂食障害者は、身体の衰弱に反比例するように、明るく活発となり、気分は躁状態となる。痩は躁と読み方までが同じ。
が、彼女たちの空っぽの胃袋がそれを象徴するように、彼女たちの軽くなった心身の快活さには虚しさが付きまとう。

ルサンチマンの目的を達成するためには、自分の無欲がルサンチマンの結果であることを隠さなければならない。ルサンチマンであることを認めてしまうと、自分は、本当は受け入れて欲しいのだ、という欲望があることを認めてしまうことになる。
それを認めてしまうと、過食期の惨めな鬱状態に落ち込んでしまう。
だから、拒食者は、ルサンチマンであることを悟られないように、ダイエットなどの口実で、拒食をカムフラージュしようとする。

失恋程度の挫折なら誰にでもあるが、それによって誰もが摂食障害になるわけではない。発症のきっかけは、単なるきっかけで、本当の原因を探るには、病人の幼児体験にまで遡らなければならない。

現代的な青少年の心の病は、古典的家庭には普通に見られた、模範的権威としての父親と、ありのままの自分を受け入れてくれるよき理解者としての母親が、存在しないことを背景にすることが多いが、摂食障害にもこれがあてはまる。

摂食障害者の家庭環境を調べてみると、父親の存在は希薄で、母親は専横で寛容さに欠け、過度に批判的というケースが多い。

拒食症の娘が、自分の体を、ボーイッシュな鋭さを持った棒のような身体にするのは、ファルスが不在であるがゆえに、自らの身体をファルスの形に近づけようとしていると解釈することもできる。しかし、摂食障害では、父親の問題はあまり大きくない。重要なのは母親の方である。

摂食障害者の母親は、しばしば夫や姑に対する愚痴の捌け口を子供に求める。子供の理解者になろうとはせず、逆に子供を自分の理解者にしようとする。さらにはお稽古事やお受験などで、子供を自分の虚栄心を満たすための道具にする。
しかも、それが子供を愛することだと誤解している。
母親は、拒食症の子供を手のかからないよい子、と認識しており、あんなに従順だったよい子がなぜ拒食症に、と戸惑う。
しかし子供に事情を聞くと、母親には、手をかけてもらえなかった、という不満の声が返ってくる。母子の間に認識のギャップがある。

母親が拒食症に狼狽すればするほど、子供の拒食症は酷くなる。
拒食症が、ありのままの自分を受け入れてくれなかった母親に対して、食事を受け入れないことによって行われる報復であるからだ。

拒食症の子供は、家族と囲む食卓においては、食事を拒否するが、かげではこっそりつまみ食いをする。これは子供が、本当は母親の愛に飢えていることを意味する。
摂食障害者の中には、母の蒲団にもぐりこんで抱きつこうとするなど、幼児への退行を示すものも少なくない。だが、甘えさせてもらえないと、一転して悪態をつく。この極端から極端への変身は、過食から拒食へのルサンチマン的な反転と厳密に一致する。

もともとよき理解者でない母親は、えてして子供の真意が理解できない。
鈴木その子は、子供は放ったらかしにすること、が信念だと言った。
子供は世話をやいてあげるより、放っておいた方が、自分で考え、自分で行動し、自分で結果を出す努力をする、という彼女の教育方針は、長男には理解してもらえなかったようだ。
長男は、その子に対して、「ママの両親も、兄弟も、今の家族の中でも、ママが本気で愛している相手もいないし、ママを一番愛している家族もいないね」と言っている。
長男は拒食症となり、脳貧血を起こして、5階のベランダから転落死した。
これをきっかけに、鈴木その子は、食べて痩せられるダイエット法の開発にのりだした。彼女は、最後まで息子が身をもって発したメッセージが読み取れなかった。
そしてそのまま死んだ。

悲劇は繰り返される。子が可愛くない親はゴロゴロいる現代、わたし達は何処へ漂着するのか???

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