*自殺を考える
自殺について。
自殺、時に甘美で、時に恐怖で、だが迷惑なのは確かだ。
自殺関与罪について、有名な論点がある。
刑法二〇二条 人を教唆し若しくは幇助して自殺させ、又はその嘱託を受け若しくは、その承諾を得て殺した者は、六月以上七年以下の懲役又は禁錮に
処する。
二〇三条 一九九条及び前条の罪の未遂を罰する。*一九九条は殺人罪
甲と乙が、今のところ戦っていて決着がついていない。こんな状況で人が人を裁き、公然と死刑に処すのだから、怖い。
まず、甲説:団藤説といのがある。
自殺の不処罰根拠
自殺は違法であるが可罰的違法性が無い。
関与罪の処罰根拠
共犯の従属性に関する制限従属性説を前提に、違法な自殺行為を行わせる行為
は共犯として処罰可能である。
実行の着手時期
自殺行為が開始された時点。(通常の共犯と同様)
此れに対し、乙説:大谷、前田説は、
自殺の不処罰根拠
自殺は自己の法益の処分行為であり違法ではない。
関与罪の処罰根拠
生命は本人だけが左右しうるものであり他人の自殺への関与は、その者の存在
を否定し、その生命を侵害するものとして可罰性を有する。
実行の着手時期
自殺の教唆、幇助の時点。
批判として、同意殺人罪では、単に嘱託を受け承諾を得たというだけでは実行
の着手とは言えないことと、統一すべきである、とする。
一寸遅れて、丙説:山口説では、
自殺の不処罰根拠
自殺は自己の法益の処分行為であり違法ではない。
関与罪の処罰根拠
生命は本人だけが左右しうるものであり他人の自殺への関与は、その者の存在
を否定し、その生命を侵害するものとして可罰性を有する。
実行の着手時期
自殺行為が開始された時点。
法益主体の意思に合致した生命侵害が処罰根拠である以上、生命に対する現実
的な危険の発生を未遂成立の要件とすべき、とする。
今流行のネット心中は、可罰的か否か。
報道によると、インターネット経由で集合した互いに無関係の男女が、自殺行為を共同して行う、という近時の類型的な事案で、その中の一人が翻意して通報したために、全員が助かった事件があった。
睡眠薬を飲んで練炭に火をつけているということから、乙説以外においても実行の着手は認められるように思うが、当人以外の各容疑者にとって自殺の意思が本意であったとすると、他の容疑者にとっては、他人の自殺を邪魔した挙句、自分だけ中止犯が適用されて減免されるとは何てことだ、と言うことになるかもしれない。
四二条一 罪を犯した者が捜査機関に発覚する前に自首した時は、その刑を減軽す
ることができる。
四三条 犯罪の実行に着手してこれを遂げなかった者は、その刑を減軽すること
がきる。但し、自己の意思により犯罪を中止したときは、その刑を減軽
し、又は免除する。
もっとも、自殺を止めないこと自体は刑法的には何ら批難されることもないようだが、一旦関与した以上、関与した方法によって他の自殺志願者が死に至る具体的危険を全て除去しなければ中止犯が成立しない、ということも考える必要がありそうだ。
それに、自殺関与罪における中止犯によって利益を受ける者は、(自殺が本意であったとすると)その家族や(人口が減っては困る)社会そのものである、という評価をすることも可能かもしれない。
だとすると、或いは、自殺関与罪は個人の生命に対する罪なのに、その中止は、専ら社会的法益に資するものであり、統一的な理解をすることは不可能なすれ違いがあるということになるのか。
難しいものだ。
自殺は悪いことか……迷惑なのは確かだが、例えば自殺の名所という触れ込みで観光客を集める場所は如何か?
じっくりかんがえてみよう。
悲鳴。
食べ吐きが止められません。
食べないと家族が心配するし、食べると太るような気がして罪悪感に苛まれ、食べた物を吐いてしまいます。
身体に良くないってわかっているんですが、止められません。
彼氏が出来たのですが痩せ形が好きだと聞いてダイエット始め、でも食べる事が大好きな私は我慢出来なくて彼氏の居ない間にお腹いっぱい物を詰め込んで、その後に指を突っ込み吐き出すんです。彼氏と一緒の時はチョット抜け出してコンビニに直行して弁当三個にサンドイッチ、お湯をもらいカップラーメンを持って車で一気に食べ、またコンビニのトイレで吐く。手に吐きダコも出来ました。
病院にも行かず、毎日食べては吐くを繰り返しています。
最近では、指では上手く吐けなくなり、歯ブラシを喉の奥まで突っ込んで、無理やり吐いています。
吐きダコどころではありません。
本当に自分が嫌でたまりません。
こんなことではダメだと思い、食べ過ぎないように気をつけてはいますが、ちょっと食べてお腹に溜まってくると吐きたくなりますが、少量では吐きにくいのでまた胃がパンパンになるまで食べて吐いています。
吐いた後は私も自分が嫌になります。食べてる時は無我夢中、、、吐いてる時は涙も鼻水も出て苦しくて明日からは吐くまで食べないぞと言い聞かせるのですがそれが二年も続いてます。ここで十年と言う人も居ますが辛いでしょうね、、。私以上に辛い思いしてるのですね、、。歯ブラシで吐くのにはビックリしました。自分でも何かのストレスで過食になったのかは分かるのですが、どうしたらやめられるか解決策が分かりません。
から信頼できて甘えられる相手がいたらどんなに楽かと思った事も何度もありました。
不妊治療しましたが結局子供も出来ず、それが原因で離婚しました。
私は子供の頃からなにかあってもだれにも相談せず、自分で解決してきました。
というか、いつもいい子でいなきゃならないという思いが強く、いつのまにか自分の気持ちを押し殺すクセがつきました。
以前も書きましたが、自営業で取引先や従業員に気を遣うばかりで、とても疲れます。
今、お付き合いしている彼もいますが、何度も彼に相談しようと思いましたが、なかなか言い出せません。
理解してもらえないんじゃないかって思うと、話すのが怖いんです。
嫌われるんじゃないかとか、カッコ悪い事なんじゃないかとか思えて、毎日食べては吐きの繰り返しです。
病院にも行かなくちゃって思うんですが、それも出来ずに、自分の不甲斐なさに我ながら悲しくなります。
カッコ悪いなんて思わないで彼に話してみようかな。
私も本当の私を理解してくれる人がほしいです。
皆同じなんだね。
食べても胃の中にある全てを吐ききり、胃液まで吐かせ、合併シ壁の一つである薬物依存の中の下剤常習し、出来る限りの栄養を搾り出せば誰でも痩せます。
吐くことにより筋肉を働かせる為に大切なカリウムを排出してしまうので筋肉退化及び心臓の動きも弱めます。
そんなに痩せたかったらボクシングジムに通えといったひと、あなたが彼女達に命令する権限はありません。
皆まじめに悩んで苦しんでるのに、あなたの様な無神経な人間の発言は悪影響を及ぼします。
食べても胃の中にある全てを吐ききり、胃液まで吐かせ、合併シ壁の一つである薬物依存の中の下剤常習し、出来る限りの栄養を搾り出せば誰でも痩せます。
あなたは、「拒食症」「過食症」「過食嘔吐」をひっくるめて言ってるようですが、自ら吐く行為をするのは「過食嘔吐」だけです!!!
拒食症・過食症とは違います。病気の根源は同じですが、症状がハッキリ違います。拒食症だけの人・過食症だけの人もいます。
拒食や過食を繰り返した後に過食嘔吐に達するケースもありますが、いきなり過食嘔吐から発症することもあります。
過食嘔吐を続けると痩せるのです。「吐けば痩せるとは限らないぞ」に意見した意味が分かりましたか?自らはく行為をするのは過食嘔吐だけです!!!
これを理解してください。
と、この環境下で頑張ってますが、うっかりパスワード記憶させてしまった。他人のブログに書き込みはやめよう。
親との関係。
昨日医師から言われた。
「あなたの精神年齢は十六歳だ」
ガ~~~~~~~~ン!!!!!
以下、医師のお言葉。
つーてもどーせ、何かの本から憶えたきおくを再生しているだけろうが。
医者ってのは、ターヘルアナトミアから進歩していない。
詰め込んだ記憶の再生をするだけで経験から得た知識知恵はもっていない。
愛のない冷たいい家族の中で育つと、自分もどのように他人や子供に愛を与えればいいのか分からない。
無闇矢鱈と表面的に愛情をくれそうな人にしがみつき、また反対に、誰とも人間関係が持てなくなる。
親が病気がち、いつも鬱に落ち込んでいた、自殺や家でがあったなどの経験をしている人は、何処か孤独感があり、寂しさが拭えない。
見捨てられる不安にかられ、パニックに陥り、人を頼れないこともある。
何を言っても相手にされず、聞いてもらえなかったりすれば、人は、世の中は何を言ってもムダであると思いこんだり、自分をも否定してしまうことになりかねない。
他人や兄弟姉妹といつも比べられたり、差別されたり、悪いことは全部自分のせいにされたりして育つと、すぐ自分は他人より劣っていると思ったり、間違っていると思いこんでしまう。
または、他人が自分を悪く思っていると疑ったり、その思いこみから怒りを相手に爆発させたりすることも、ままある。
猜疑心から、ほんの一寸のことを大きく感じ、防衛的になったり攻撃したりしてしまう。
何かと抑圧され、批判され、嫌みや皮肉を言われ、罪の意識をうえつけられたり、コントロールされて育つと、自己というものが成長しない。自分そのままであってはいけないというメッセージを受け取ってしまうのだ。
親の言う通りにして、いい子にしていないと、批判され拒絶されるという恐れは、大人になってもなかなか消えるものではない。
ときに、自分自身が、自分に対する一番過酷な批評家になってしまうこともある。
特に「こんなにしてやっているのに」とか「あなたのためだ」と親に言われて罪の意識を植えつけられて育つと、親がよかれと思ってやってやっているため、親にはっきり嫌だと言うえず、つい自分の本音を殺して親のいいなりになってしまうのだ。
親に反抗すれば、「わがままだ」「自分一人がよければ良いと思って!」と、ますますコントロールが強まる悪循環。
こうして大人になった人は、仮面を被った自分と、本当の自分との葛藤で生きること辛いだけとと感じるようになる。
こういう人は弱々しく、何でも親の言うことにハイ、と言って従い、親にされたことと同じことを自分の子供に要求し、子供の個性を潰すようになるが、一見とてもできた人に見えるだけに、むしろ怖いのだ。
親の期待が大きすぎたり、親の見栄、親のお人形として育てられた人も、本当の自分と期待される人物像のギャップに苦しむ。
能力以上のことを要求され、自分の個性とは全く違うことを期待されると、どうでも良いと自暴自棄になったり、自信をなくしたり、または完璧を求めて強迫的になったりすることがある。
他人の目を異常に気にする、表面だけ良く振る舞う家族も、裏と表が違う人間を作り上げることがある。
肩書きや地位、お金やブランドや商品、有名校だけが重視されて、人間の中身はどうでもよくなってしまう。
名の通った学校への入学、大手の会社への入社が成功であるというたった一本のものさしではかられる人生は、人間の幅を縮め、選択肢の少ない、面白くもない人生を生み出す。
以上。
確かにうちがそうだった。
親の期待過剰と、相反する蔑視差別。兄にはお金をかけてもわたしにはエアコンも塾も無かった。僻みはする。生きること自体が辛くなる。生きている自分が憎くなる。
しかし、まだ生きづらさを感じている人は救いもあるが、親の言う通りに生きてしまって、疑うことなくAIのようになった人は、自分の人生よりも親の人生のために生きる操り人形と化してしまう。
人間の幅を縮め、選択肢の少ない、面白くもない人生を生み出す。他人の気持ちを思いやれる心の豊かな人間、一人一人の人格と真の幸福を尊重する人間とはほど遠い、人に上下をつけて、軽蔑するような人間になりがちだ。
一寸だけよン。
ちょっとだけです。
熱血若手のカウンセラーが、「できるものなら今此処でやりなさい!」というから、やってあげて見せただけ。
痛くも何とも無い。
麻痺してしまった、痛覚なんて。
米国の自殺傾向についての論文。
病院にいると、色んな論文が読めていい。
ただ、和訳が面倒。わたしとしては英語かドイツ語で載せたいのだが、読んで貰えないと台無しなので、頑張ります。
自殺行為は自殺演技、自殺未遂および自殺既遂を含む。
自殺計画と行動がとても成功しないように映るときは、自殺演技と呼ばれることが多く、主として伝達的性格のものだ。
しかしながら、それらは軽く片付けてはならない。
というのは、それは助けを求める重要な叫びであり、苦痛の除去と再企図の予防のための完全な評価と治療が必要だからだ。
特に自殺企図者の二〇%は一年以内に企図を繰り返し、そして十%は結局自殺を達成してしまうという理由もある。
自殺未遂は死に至らなかった自殺行為であり、それはおそらく自己破壊の意志が軽微で、あいまいだいは両義的であったためか、行った行為が死に至らしめる可能性が低かったためだ。
死を企図する人のほとんどは死の願望について相反する気持ちをもっており、その企図が援助を訴えるものであり、生きたいと強く願うために成功しないことがある。
自殺既遂は死をもたらす。既遂と未遂との区別は絶対的なものでない。
その理由は、自殺未遂には、死を決めた人が、早期に発見され効果的に蘇生されたというだけで死を妨げられた行為も含まれ、また自殺企図が誤算により意図せずに死に至ることもあるからだ。
自己破壊行為は通常、自殺観念、自殺未遂および自殺既遂を含む直接的または間接的、つまり、死ぬ意思がないのに生命を脅かすリスクを冒すことが特徴で、繰り返されるのが通常で、無意識になされることが多いので結局自己破滅的結果に終わる可能性が高いのだ。
間接的なタイプの例は、アルコールの過剰摂取と薬物の過剰使用、過剰な喫煙、食べ過ぎ、自分の健康の軽視、自傷、ポリサージェリー嗜癖、ハンスト、犯罪行為、そして交通マナーの無視などだ。
発生率としての数値では、自殺行為の統計は、主として死亡診断書と検死時に記録された報告に基づいており、それらは実際の発生率を低く見積もっている。
例えそうでも、自殺は都市地区における成人の死因の一〇位以内にある。
ヨーロッパでは都市部における発生率は田園地区よりも高い。
米国ではそれらはほぼ同じだ。米国では毎日七五人が自殺している。
二五~三四歳までの死因の一〇%であり、大学生の死因の三〇%を占める。
青年では死因の二番目になっている。
この十年に於ける青年の自殺の継続的な増加は、主として男性の自殺の増加に起因しており、二倍以上になる。
自殺既遂の七〇%以上は四〇歳以上で、六〇歳以上の特に男性において発生率は急に上昇する。自殺を企図した人の約六五%が四〇歳未満だ。
米国における約二〇万件の自殺企図のうち、一〇%が既遂だ。自殺未遂は救急入院の約二〇%を占め、そして全入院の一〇%を占める。女性の自殺企図は男性の二~三倍だが、男性の方が一般的に既遂は多い。いくつかの研究によると、自殺企図の患者の家族において自殺の発生率がより高い。
既婚者は男女とも特に安定した関係にある場合、独身者より自殺率が低い。自殺企図と自殺既遂は離別、離婚、または配偶者の死による単身者により多い。自殺未遂の発生率は独身青年女性で不釣り合いに高く、三〇代の独身男性でも高い。
黒人女性における自殺は最近二〇年で約八〇%増加し、そのため黒人における総発生率は特に都市部では現在白人のそれと同じだ。アメリカインディアンにおいても最近発生率が上昇している。ある種族では、全国平均の五倍だ。
自殺が監獄の中で、特に重犯罪にかかわっていなかった若い男性に、通常収監の最初の週に起こっている。首吊りが一般的な手段だ。
集団自殺は、多数であろうとたった二人(恋人同士または夫婦)であろうと、他の人々との人格同一化の最たるものだ。大集団の自殺は自己保存の強い衝動を圧倒するような強く感情に訴える状況において発生する傾向がある。
法律家、歯科医、軍人および医師を含む専門職に就いている人の自殺率は平均よりも高いようだ。
医師における自殺率が高いのは主として女医の自殺によるもので、その年間の自殺率は対応する一般人口の四倍だ。
四〇歳未満の医師では、自殺が主な死因だ。自殺手段に関していうと、男女両方の医師において、一般の人々と比べたとき、薬物の過剰摂取の率が高い。
恐らく容易に入手でき、致死量を知っているからであろう。医療関係者のうち、もっとも高率なのは精神科医だ。
ほとんどの宗教団体(とくにローマカトリック)の信者に於いては、自殺は少なく、彼らは通常、その信仰によって支えられており、そして自己破壊行為を防ぐ親密な社会的つながりがある。
カトリックの国の低い自殺率の報告の幾分かは、単に自殺の報告を無効とする検死官の意図による。
自殺率はユダヤ人の場合と同様に実際にもより低いように思われる。宗教への参加と強い宗教的信念があっても、フラストレーション、怒り、絶望、また罪責妄想や無価値妄想を伴っているときの、個人の激しい無計画な自殺行為を予防できるとは限らない。
遺書は自殺既遂者のうち約六人に一人の割合で残されている。
その遺書は、しばしばその人の死後に起こるであろう人間関係と、出来事に言及してある。
高齢者では、後に残される者についての気遣いがしばしば表現されているのに対し、若者の遺書は怒りに満ち、または復讐的でさえある。
内容は自殺行為の原因となった精神障害を示していることがある。自殺未遂では、遺書はあまりみられない。
それは、事前の計画と、再企図および自殺既遂の高いリスクを示している。
自殺の原因。
自殺行動に至る心理機構は、アルコール症、無謀運転、自傷、そして暴力的な反社会的行為のような別の形の自己破壊にしばしば関与する機構と似ている。
自殺はそのような行動の過程における最終的な行為であることが多い。
自己破壊的行為をしやすい人々に幼児期の心的外傷、特に家庭崩壊または親の死からくる苦痛がみられることが非常に多いが、この自己破壊的行動への傾向の理由は、恐らくこれらの人々が安定した、有意義な人間関係を確立することが、より困難なことによると思われる。
自殺未遂は、家庭内での無視と暴力のサイクルを反映した妻への虐待と幼児虐待によって起こりやすい。
自殺行為は通常、様々で複雑な動機から起こる。主因には精神障害(主に鬱病)、社会要因(失望と喪失)、性格異常(衝動性と攻撃性)、そして身体疾患が含まれる。ある一つの要因(通常は一つの大切な関係の崩壊)によって頼みの綱が切れることが多い。
自殺未遂の半分以上は鬱病が関与している。
結婚生活の不和、情事の破錠と不幸、特に若年層の両親との口論、高齢者に於ける最近の死別、特にこのような社会要因が鬱病を結実させることがある。
身体疾患に伴う鬱病によって、自殺企図に至ることがあるが、身体能力低下がある場合、特にそれが慢性であり、または痛みが激しいときには自殺既遂に至ることがより一般的だ。
重篤で慢性の痛みがひどい身体疾患に侵された高齢患者は自殺者の約二〇%を占めている。
アルコールは、鬱病性気分変動を増悪させ、自己制御を低下させることによって自殺行為を起こしやすくする。自殺企図者の約三〇%が事前にアルコールを摂取しており、このうち約半分は行為の時点で酔っている。
アルコール症それ自体、特に気晴らし飲酒はしばしば間欠期に深刻な自責の念を生み出すため、しらふのときでも自殺する危険が高い。ある調査によると、アルコール中毒患者の、一〇%が自殺を犯している。自殺を防止することを目的とした手段を含むアルコール中毒患者の治療プログラムによりおそらく自殺率を減らせるだろう。
一部の精神分裂病患者は自殺を試みる。
慢性精神分裂病では、自殺はこれらの患者に起こりやすい鬱病のエピソードに起因していることがある。
その自殺方法は通常、奇異であり、そしてしばしば暴力的だ。
自殺未遂は稀だが、それが精神分裂病の初期に、恐らく患者が自分の思考と意志の解体に気付いたときの精神的混乱の最初の大きなサインだことがある。
人格障害を有する人は自殺未遂をしやすい。
特に、境界型または反社会的人格障害を有し、フラストレーションに十分に耐えることができず、ストレスに対して暴力と攻撃により衝動的に反応する感情的に未熟な人がこれに該当する。
ある人はアルコール過剰摂取、薬物乱用および犯罪の生活歴を有する。成熟し持続した関係を形成する能力のないことが社会的チャンスの低下、孤独および鬱病の原因になり、これがおそらく離別または離婚した人にみられる自殺未遂の多くの原因だ。
そのような人では、自殺への結実因はお互いの苦しめ合う関係を解体して、新たな関係とライフスタイルを打ち立てるための重荷から必然的に生じるストレスだ。
ロシアンルーレットの要素は一部の自殺企図において重要だ。人は運命の決定を結果に委ねることを決心する。一部の精神的に不安定な人は、無謀運転や危険なスポーツのような死と戯れる冒険的な遊びのこのような面に興奮する。
他者に対する攻撃は、特に、殺人の後の自殺や、暴力的犯罪のために服役している囚人における高い自殺発生率で示される。苦しみの影響を考えるとき、自殺は他の重要な人に向けられるように思われる。
せん妄、例えば、薬物、感染または心不全に起因するものや痴呆に於けるような器質的脳疾患は、感情不安定を随伴することがある。
重度だが一過性の抑鬱性気分変動の間に、暴力的な自傷行為が起こることがある。
そのようなときには意識は通常障害されているので、患者はその出来事をぼんやりとしか思い出せない。
てんかん患者、特に側頭葉てんかんは、短期間だが顕著な鬱病のエピソードを頻繁にもつ。
それらの状態のために処方された薬物は、それらの患者に通常より大きい自殺行為のリスクをもたらす。
自殺方法の選択。
方法の選択は、文化的因子と利用可能性によって決定され、意図の真剣さを反映している。というのはある方法、例えば高所からの飛び降り、では、ぼ生存は不可能だが、他方、他の方法、例えば薬物摂取では、救済されるチャンスがある。
しかし、致死的でないとわかっている方法を使っても、必ずしも自殺の意志が弱いということにはならない。奇異な自殺方法は精神病の存在を示唆する。
薬物摂取は自殺企図に最も頻繁に使われる方法だ。
バルビツール酸の使用は症例の五%未満に減ったが、一方他の向精神薬の使用は増えてきている。
サリチル酸の使用が全体の二〇%以上から約一〇%に落ちてきている一方で、アセトアミノフェンの使用が増している。
アセトアミノフェンは安全な鎮痛薬と思われているが、過量摂取は非常に危険だ。
二つ以上の方法または薬物の組み合わせは自殺未遂者の約二〇%で使用され、特に重篤な相互作用をもつ薬物が組み合わされた場合、死亡のリスクを高める。
多剤投与した場合、考えられる全ての薬物の血中濃度を調べるべきだ。
発砲や首吊りのような暴力的方法は自殺未遂ではあまりみられない。
自殺既遂例では、小火器が男性の七四%、女性の三一%が用いた最も一般的な手段であった。また小火器の使用による自殺の割合は、銃器の入手可能性と短銃規制により変動する。
自殺の予防措置。
あらゆる自殺行為や脅しは真剣に受け取らなければならない。
自殺未遂または既遂の一部は身近な親族と関係者にとってさえ、驚きとショックであるが、ほとんどのケースで一般的に、親族、友人、医療従事者、あるいは苦痛をかかえている人に対して二四時間サービスを提供している救急自殺予防センターの訓練を積んだボランティアに対して、明らかな警告が発せられている。
ボランティアは、自殺する危険性をもっている人を判別し、会話を続け、自殺の危険性を評価し、当面の問題について援助している。が、全然足りない。
危機状況では緊急支援のために他者(家族、医師、警察)に助けを求め、継続的支援をするためには適切な施設に自殺患者を導く。
此れは自殺する危険をもつ人を助けるための合理的なアプローチであるが、これによって自殺発生率が減ったという信頼できるデータはない。
医師は、平均一年間で六例以上自殺リスクのある人を診察するだろう。
自殺者の半数以上は自殺に先立つ数カ月以内に主治医の診察を受けており、少なくとも二〇%は前年に精神科治療を受けている。
鬱病が自殺に影響することが多いので、自殺予防のために医師がなし得る最も重要なことは、鬱病の診断と治療である。
鬱病患者には一人一人、自殺念慮について注意深く質問しなくてはいけない。
如何に巧みに、思いやりの振りをもって質問しても、自己破壊の考えを患者に植えつけることになるという心配は根拠無し。
質問により医師は鬱病の重篤さをより明確に知ることができ、建設的な話し合いを促して、患者の深い絶望と無力感を認識できる。
評価スケール、ベックの鬱病尺度等は、自殺のリスクが重大であるかを判定する一助となる。
鬱病治療の初期に、制止と決断不能が緩和される一方で抑鬱気分がまだ存在するか、部分的に緩和されているときに、自殺のリスクが高い。
従って、治療の初期的効果が、自己破壊をより有効に計画することを可能にする。精神作用薬は慎重に、控え目に処方されねばならない。
不眠は鬱病の症状である場合がある;その場合、背景にある鬱病を治療せずに睡眠薬によってこれを治療することは、効果的でないばかりか危険でもある。
激しい自殺の脅し、例えば致死量の薬をこれから飲むところだと電話や宣告する、または高所から飛び降りるぞと脅す等、をする人は死への願望が両価的でしばしば一過性である。
患者に助けをアピールされている医師または他人は、生存への欲求を支援すべきである。自殺の脅しをする人はさし迫った危機状況にあるので、このような人には状況を解決できるという希望が提示されなければならない。
緊急の心理的援助はその人と関係をつくってオープンなコミュニケーションを確立する、つまり……。
自己のアイデンティティを気付かせる
名前を繰り返し呼ぶ
危機をもたらした問題の整理を助ける
その問題に関する建設的な援助を提供する
積極的な行動を促す
家族や友人が患者のことを気にかけており、援助したがっていることに気付かせる……ことだ。
もし人が既に自殺行為例えば、薬物を飲んだりまたはガス栓を開いたり、をしてしまった、または行為の最中であると電話してきたときは、できるなら住所を知り、別の人が直ちに通話の場所をつきとめるために警察に通報し、電話を逆探知し警察が到着するまで自殺企図者に電話で話し続け、その間に救助を試みるべき。
自殺を試みた患者にとって、十分な精神医学的、社会的アフターケアは繰り返される自殺未遂や既遂を減らす最善策である。精神医学的評価の実施を望む。
自殺未遂者の処遇。
自殺を企てる多くの人は昏睡状態で救急病棟に搬入される。
致死の可能性のある薬物の過剰摂取が確認されたら、患者から毒物を除去し、吸収を防ぎ、排泄を促進するように努める。
患者の生命を維持させるために、対症療法を行う。
そして特異的な薬物が同定できれば知られている解毒薬を投与する。
生命を脅かすような自傷行為をする人は全て入院させて身体的傷害を治療し、精神医学的評価をすべきである。
ほとんどの患者は身体的傷害が治療されるとすぐ退院できるほど元気になる。全ての患者がフォローアップケアを提供されるべきなのだ。
精神医学的評価は自殺を試みた全ての患者について、できるかぎり早急に実施する。未遂の直後には患者は問題を一切否定することがある。
何故なら自殺行為に導いた、重症の抑うつの後に短期の高揚気分、一種のカタルシス効果が続くためであり、これは最初の自殺企図の直後の反復性自殺企図がまれであることの原因だと思われる。
にもかかわらず、患者の問題が未解決であると、その後の自殺既遂のリスクが高い。つまりその患者は安定した強力な援助者を必要としており、その援助は医師が患者の混乱した感情を理解すると同時に共感的配慮と、問題点と方針を明確にするときに始まる。
精神医学的評価は企図を引き起こしたいくつかの問題を同定し、医師が適切な治療計画をたてる一助となる。
これに含まれるのはラポールの確立、つまり
自殺企図、その背景
それに先行する出来事
企図を起こした状況の理解
現在の困難と問題点の評価、だ。
しばしば自殺企図に関連する私的および家族関係の完全な把握として、危機介入と同時に特殊な治療を要するうつ病、アルコールまたは薬物乱用、精神障害の診断に特に重点をおいた、患者の精神機能の完全な評価、配偶者、近しい親戚または友人との面接、家庭医とのコンタクト、等がある。
最初の評価は精神科医によって行われるべきである。ただし自殺行為の対処の訓練を受けた医師以外の職員でも自殺企図患者に十分対処できる。
入院期間と必要とされる治療は様々である。精神疾患、器質的脳疾患、あるいはてんかんの患者、そして危機的状況が未解決な重篤な鬱病の患者の一部は基礎にある問題が解決するか、対処できるようになるまで、精神科病棟で入院すべきである。家庭医が関わっていなかった場合は、十分に情報を提供し、フォローアップケアの具体的な指示を与えるべきである。
自殺の影響として、自殺行為はどんなものでも関係者に著しい感情的インパクトをもたらす。
医師、家族、友人は自殺既遂を阻止しなかったことに罪悪感、恥辱、後悔を感じ、同時に死者やその他の人々に対して怒りを感じることがある。
しかし彼らは自分たちが全知全能ではなく、また自殺既遂は最終的に阻止不能だったということを認めなければならない。医師は死者の家族と友人が罪悪感と悲しみに対処するうえで貴重な援助を提供できる。
自殺未遂の影響も同様である。
しかし家族や友人にはその人が助けを求める叫びに適切に応えることによって、自分たちの感情を解消する機会がある。
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