医学的に切る
PTSDと解離性障害。
外傷性精神障害は、比較的新しい疾病概念で、旧来の概念では神経症、の一つに分類される。
故に、此れ独自の病態があるという認識、此れ独自の対処が必要という問題意識は、精神科医、心理カウンセラーの間にも充分に浸透しておらず、その現われとしてこの呼称は未だ広く確定的に支持されているものではない。
外傷性精神障害とかなり程度重なる疾病概念にPTSD(Post Traumatic Stress Disorder心的外傷後ストレス障害)がある。
こちらは阪神大震災以降、割と有名になった通り日常的常識レベルを越えた予測不可能の(不測の)事態、事件に遭遇し、此れが精神的、ダメージの記憶=心的外傷、として心の大事な領域を占領されるかたちで残り、その結果意志通りの自由になってくれない心の領域をたくさん抱える事になり日常生活に支障を来たす、というものだ。
この中の意志通りの自由になってくれない心の領域、が出来る結果生まれるのが、以下列挙する症状だ。
情緒不安定(情緒のコントロールが利かない)
感情の喪失もしくは鈍麻(感情がコントロールの利く範囲外に行ってしまう)
ある考え、ある思い、に囚われやすく一旦囚われ始めると思考、感情が意志のコントロールを離れて暴走する。(これと解離(特に人格解離)が合わさると、一般の人には精神病にしか見えない)
不眠(全くの不眠よりは、一旦は寝ても一寸した物音で目が醒め、トイレに何度も起きてしまうなど、浅すぎる睡眠の場合が多く、寝ても一向に寝た気がしないというのも多い)
パニック発作(ある日突然に、電車に乗り人混みに入ると強烈な威圧感、窒息感を感じ、或いはこういった感じがなくとも、心拍数が異常昂進するなどの事態が訪れ、此れを何度か経験する内に、電車の乗るのが、人混みに出掛けるの自体が出来なくなる。引き篭りを招きやすい。)
記憶のフラッシュバック(脈絡なく唐突に甦る記憶)
繰り返し何度も見る悪夢
感覚異常(幻覚、異常知覚)
等等。
かなり曝ら様な記憶の一部の欠落、もしくは、記憶は残っているがそれに伴っていて当然の感情が抜け落ちて、記憶されているという、事実だけを淡々と憶えている状態だ。
此れは、そこに思い出したくない、不愉快な感情、が同居しているからだと考えられ、この感情を思い出したくないがため記憶そのものを封印すると前者に、感情だけを無理矢理切り離して封印すると後者になるものと考えられる。
適正、正当な理由以上に、過剰に反応してしまう出来事、言葉、状況設定、色、触感、匂い、などがあり、何故それに過剰反応してしまうのか自分でも分からない、という状態。此れは、その人の中の連想ロジック、で、思い出したくないある事象、に行き着くので、此れを避けようと意志のコントロールとは無関係に感情の暴走が起こるからだろうと考えられる。
通例PTSDの文脈上で語られるのは、心的外傷が出来るきっかけとなる出来事が、誰の目に見ても明らかな、苛烈でショッキングな一回性の出来事である場合だ。
このある条件とは、自尊心を蔑ろにされる経験であった場合で、且つ此れが何度も繰り返し積み重ねられた場合だ。
個人的には、これも含めてPTSDだとすべきと考えている。また、医師の中には、苦肉の策として複雑性PTSD、とかComplexed PTSD、と呼ぶ医師もいる。
此れは、現在精神医学界で最もポピュラーな診断基準であるDSM-IV(アメリカ精神医学会策定)が現段階では一回性の出来事、と狭く定義されている事の影響が大きいと言える。
当然、この条件に一番合致しやすいのは、原因→結果という単純な因果関係ではない、成人するまでの生育環境の不備がある。
が、単に愛情をあまり掛けてもらえてなかった、とか構ってもらえなかった、というだけでなく、これと同時に自尊の気持ちを踏みにじる養育者の関与の仕方、が存在していたのが外傷性精神障害の特徴だ。
具体的には、両親共もしくは何れかが、考え方、価値観、信条などが非柔軟で、権威主義的であった場合が大多数で、また此れが日本の場合は男尊女卑、というかたちで顕われているケースが多いので、外傷性精神障害は女性の罹患率者が高いのかな。
と同時に両親共もしくは何れかが、情緒表現が稚拙、要するに普段はあまり表現せず、感情が表現される時は過激、過剰で、コントロールが利いていない親であった場合が多くを占める。
一個一個の出来事を取り上げたところで、それ自体は、大したことはない、なんでもない、誰にでもある経験、であることも多く、当然本人は別にどうってことない、気にしすぎるだけ、と思っているケースが多々ある。
また、解離性健忘によって、ひどく自尊感情を踏みにじられた記憶を、無意識に追いやっているケースも多く、この場合もその記憶が無く定かでないので、本人は別にどうってことない、気にし過ぎるだけ、と思う結果になる。
また、権威主義的家系は、身内の恥を他人に知られるのを極度に嫌う傾向が強く、共産主義国さながらの情報統制的な暗示、疑問を持つな、話すな、態度に出すなという抑圧を掛けられ、この禁を犯すと罪悪感を強く催すようマインドコントロールされているケースも少なくない。
自然に忘れるって。
感情の納め方、とは、我々が日常的に殆ど意識することなしに行なっている忘れる、という心の働きに密接に関連しているんだろうと、勘の良い方は気付いたはず。
忘れる、という心の働きは、大脳生理学的には、脳の中の海馬という部位の働きと関連していると言われている。
海馬は、古い脳細胞を再吸収しつつ新しい脳細胞を産んでいる脳の新陳代謝を司っている部位だからだ。
PTSDの患者の脳をMRIなどで観察すると、健常者の平均よりも海馬が萎縮している(体積が減少している)ことが判ってきている。
人間は危険な目に遭遇するなど、ストレスに曝されると、脳下垂体からACTHという物質が分泌され、此れが副腎皮質に作用し、此れによって次に副腎皮質からコルチゾールという物質が血中に放出される。
此れが扁桃体という感情を司る脳の部位を活性化させると同時に、扁桃体を制御抑制する働きも持っている海馬の働きを牽制、この合わせワザによってストレートな感情が出てきやすい状態が確保される。
この結果、反射的に回避行動などの対処行動を導き出すのだと推定される。これ自体は、危険から反射的、本能的に身を守る為の必要から存在する仕組みだ。切迫した緊急事態の時に、頭でいちいち考えていたのでは命を落としかねないからね。
コルチゾールが大量に放出されることになる苛烈な体験、または、コルチゾールが恒常的に放出され続けていることになる状況、つまり自尊心を蔑ろにされる経験が継続的にある状況、などの場合、海馬を抑制する働きをコルチゾールが持っているのが災いして過剰になる故、海馬が著しいダメージを受けてしまうということが判ってきている。
海馬が損傷してしまう事で、脳細胞の更新が遅滞し忘れる、という元来は自然な作用が自然に作用しない、状態になってしまう。
そして扁桃体への抑制が脆弱になることから、反射的、直情的な感情が起こりやすく、かつ、感情が暴走しやすくなる。
という二点のトラブルが出てくると推測され、此れは外傷性精神障害の所見と見事に一致をみる。
忘れる、という心の動作は、心の持つ自然治癒力の一つだと言う事が出来ると思われる。実際、忘れるということで我々は守られていることが多々ある。
よく一般に自然に忘れる、という言い方をするが、この自然治癒力が上手く働いている限りは、こう言うのは間違ってはいないのだが、PTSDを含む外傷性精神障害は、この忘れる、という自然治癒力自体にダメージを受けてしまったものだと言えるので、自然に忘れる事、が出来ない状態に陥ってしまうわけだ。
此れが、各種パニック発作や、記憶のフラッシュバック、解離症状が起こったり、他人の言動に対して受け流すことや忘れることが出来ずにいつまでも恨みのように思い続けてしまったり、する理由の一端だ。
基本的には、この自然治癒力が復活するまで待つしかないのだ。
実際にはそう簡単に数値化できるものではないが、話を分かりやすくする為に仮に数値化してみると、自然に忘れる事が出来ている状態で忘れる、のに要する時間を仮に一〇、だとしたら、ダメージを受けたことを忘れる働き、つまり海馬の回復までに待たないといけない時間は二〇〇~一〇〇〇、くらいだと思われる。
ただ、待つ、と言っても、忘れる事が困難になっている状態というのは、それだけ脳内に抱えている総情報量が増えているということをも意味しるから、此れは凄い緊張状態だ。
また、忘れる事が出来ないとは物事を整理することも出来辛くなっていること、も意味しる。
人間というのは、バラバラの出来事に脈絡、関連を見つけ出すなどで、物事を整理することで落ち着くように出来ているから、此れが出来にくい状態だと混乱しやすい状態がどんどん加速する傾向を強く持つことになる。此れを無理矢理に理屈付けで回避して行こうとすると解離に行き着く。
此れに加え、扁桃体に充分な抑制が利いていない事から起こる感情の暴走しやすさも加わるので、緊張度合いは何重にも加速させられていることになる。
だから、健康なら普通と言える生活環境なら、混乱を加速させる要因になる可能性が幾らでもあり、こういったものを普段の生活環境から少しでも取り除いてやる。
こういう意味で守ってあげるようにすると、その分だけ自然治癒力の回復を早める事に繋がる。普通の日常生活の中にはこういう危険に常に曝される危険性はいくらでも存在しる。
そうかと言って、よほど経済的に裕福な人でもない限り、日常生活から隔離された安全な状況で長期間過ごすなんてことは出来ませんので、悪化する危険性と常に隣り合わせだ。
拒食の難しさ。
拒食は死に繋がるが、止めるのは過食より難しい。
カウンセラーがそう言った。だからあなたは厄介なのだ、と。
何故か?
答え、悪いことが無いから。勿論一身属性の不健康という欠点はある。が、周囲に関しては、経済、社会生活、業務、何も欠点が無い。
食費が浮いて助かるし、食事に時間をとられないから仕事も進むし、食欲に左右されず、誰と食事をしても「もっと頂戴、残すなら頂戴」、よりは、「ごめんなさい、余り食べられなくて、気にしないで、何時もこうなの、良かったらこちらも食べてみる?」のほうが受けはいい。
つまり、拒食を咎める理由が見つからないのだ。
そりゃ、いつもかったるそうで怠けていては叱られるだろうが、大抵の拒食症者は活発だ。
食べなければ食べないほど、欠乏するほど、動き回る。こんなに食べなくて痩せていても、こんなにしゃきしゃき動けて勤勉なのよ、と主張するのだ。
だから手におえない。厄介だ。
過食なら、金が掛かる、それだけで咎める理由になるが、食べないでは咎める理由が無い。
そして本人の美意識は非常に歪んでいるから、骨張るほどに美しさを味わう。
「食べろ」と叱っても、「何で? 何か不都合がある?」と言いかえされては、二の句が告げない。
不都合は無いのだ。拒食に関しては、周囲に関しては。
ただ回りは弱り死に向っていく人間を、ぼけーーーーっと見ているしかない、苦しさを感じるらしい。
確かに痛々しい。自分の昔の写真や病歴を見るとわかる。
寝ているだけで尾てい骨の箇所が圧迫されて内出血し、皮膚が捲れる。骨盤も剥き出しで、レントゲンだか実写だか分からないほどやせていた。
確かに見た目は悪い。が、其の時点では其れを美しいと信じているのだから、どうしようもなかった。
痩せているわたしを羨ましがって、太らせようと企んでいる、そう思った。
周りは迷惑といえばいえる。本人にとっては体重計が心の友で、日毎減っていく数値を日記に書き、うっとりするのだ。
Werther effect.
ウェルテル効果という言葉がある。
簡単に言えば一般的に知名度があり、カリスマがある人間が自殺すると、連鎖的に自殺が増えてしまう現象を指す。
連鎖自殺、誘発効果、ドミノ連鎖とも言う。
何故この名称が付いたのかというと、若き頃のゲーテの名著、若きウェルテルの悩みという作品の主人公ウェルテルが最終的に自殺することによりヨーロッパで自殺がはやったため、ここから生まれた名称だからである。
日本での有名なウェルテル効果は、藤村操が「人はなぜ生きているのか不可解也」と、客観的に見れば理由にならない理由で自殺したらそれを真似する青少年が増え社会問題になった。
一九八六年四月八日、アイドル歌手の岡田有希子が十八歳で自殺すると、また同世代の若者の自殺が増えた。
一九九八年にもX JapanのHIDEが自宅で自殺した、と報道された。するとファンの女性の自殺が増え、他のメンバーが自殺を思いとどまるように記者会見まで開く騒動となった。
これらの現象では,ただ後追い自殺をするのではなく、自殺した人間と同じ手法で自殺している。
ウェルテルの時代はウェルテルと同じ格好(褐色の長靴と黄色のベスト、青色のジャケット)で同じ手段(ピストルで)自殺している。
岡田の時も、自殺が増えたと言うより飛び降り自殺が増えたと言うべきであろう。岡田が自殺したビルで投身自殺した者も結構いる。
hideの自殺も同じようなものである。
人間は似たようなものを好きになるから、同化して死にたいと思う心理であろう。
これは自殺だけではなく他の事例でもあるといわれている。
例えば、和歌山でカレーに毒物を入れる事件が発生すると全国で毒殺事件が数多く発生した。
また第二次世界大戦が終わると、東欧で共産主義が次々と成立、ベトナム戦争でアメリカが撤退すると東南アジアで次々と共産国が成立。バルト三国が独立すると次々と東欧諸国が共産主義をやめ、ついにはソ連までもが崩壊してしまった。
尤も、同様な事件をマスコミがセンセーショナルに報道する為、連鎖反応が起きているように見えるだけだとの意見もある。
自殺に関する倫理観と自殺志願者の意見として、自殺をすることは良くないことであり、自殺志願者を全て救おう、とする動きが日本社会の一般的な理念である。
しかしながら、自殺する事がなぜいけない事か、という根本的な問いに対する明確で説得力のある論理的な答えが存在しないため、自殺防止を呼びかける人々の「生きていれば必ずいい事がある」「死ぬ気になればなんでも出来る」等の励ましは多くの自殺志願者にとって気休めにもならず、また当事者を追い詰める可能性もあるという厳しい意見があり、精神ケアの難しさを顕著に示す例としても、自殺は社会問題の一つとなっている。
自殺志願者を救いたい人々は自己満足のためだけに活動しているに過ぎない、という志願者側の見解に決定的な反証が出来ない事も多く、カウンセリング成功への道のりは険しい。
また、自殺志願者の辛い人生を肩代わりしてあげられるわけではないことも、自殺防止を困難にしている。
一方で自殺願望の念から立ち直った人から「どうしてあれほど死にたいと思っていたのかはっきりしない」「理由なく、何故か死にたかった」という意見も聞かれ、根本的な原因の追究と解決の難しさを表しているといえるだろう。
俗的多重人格の正体。
解離性同一性障害は精神疾患の一つ。
特に幼児期に、性的虐待などの強い心的外傷から逃れようとした結果、自我の同一性が失われる疾患のことを指す。
一人の人間に複数の人格が生じるため、以前は多重人格と呼ばれていた。
多重人格の旧称が表す通り、明確に独立した性格、記憶、属性を持つ複数の人格が一人の人間に現れるという症状を持つ。
ほとんどが人格の移り変わりによって高度の記憶喪失を伴い、そのために診断が遅れ、誤診されることが非常に多い疾患でもある。
また、多くの多重人格をテーマとした小説や映画などを見ても分かる通り、その症状ばかりが好奇の対象となりやすく、この疾患のほとんどが幼児に対する性的暴行などの残忍な虐待を背景に持つことについては軽視されがちである。
解離とは、記憶や意識、知覚など、本来ならば一人の人間が連続して、かつ、統合して持っているべき精神機能がうまく統一されていない状態を指す。白昼夢に耽ってふと我を忘れるのは軽い解離の一例だ。
一方、人間は想像を絶する苦痛に見舞われた場合に防衛本能として解離を起こすことがある。
痛覚などの知覚、記憶、意識などを自分から切り離すことによって苦痛から逃れるのである。
現実逃避と混同されがちだが、現実逃避が単なる精神的遁走であるのに対し、解離は実際に痛みを全く感じなくなったり、苦痛の記憶が丸ごと消失したりする点で大きく異なる。
此れを解離的遁走と呼ぶこともある。
精神の解離とは?
人間は、それぞれ成長するに従ってその身体に対応した一つの確固とした人格とそれに対応した記憶が形成されてゆき、時間や場所が変わってもこれが変化することはない。
自分の体は自分だけのものであり、自分の記憶は全て自分だけのものであり、いつどこにいようともそれが変化することはない。これを自我同一性と呼び、この疾患を持たない者にはごく当然のことである。
解離性同一性障害は、この解離が高度に、かつ繰り返し起こることによって自我の同一性が失われる(あるいは同一性が複数存在するとも解釈できる)精神疾患である。
人間は、特に幼児期に、繰り返し強い心的外傷を受けた場合、自我を守るために、その心的外傷から自己を解離し、自分とは違う「別の誰か」に起こったことだとして記憶や意識、知覚などを高度に解離してしまうことがある。心的外傷を受けるたびに「別の誰か」になりすまし、それが終わると「元の自分」に戻って日常生活を続ける訳である。
解離が進み、「別の誰か」になっている間の記憶や意識の喪失が顕著になり、あたかも「別の誰か」が一つの独立した人格を持っているかのようになり、自己の同一性が高度に失われた状態が解離性同一性障害である。
事実、解離性同一性障害の患者は「別の誰かつまり交代人格」になっている間のことを一切覚えていない事が多く、交代人格は交代人格で「元の自分(以降、主人格と呼ぶ)」とは独立した記憶を持っている事がほとんどである。 極希に、この「交代人格」と「主人格」が記憶を共有し、ある条件のみで人格が交代されるものもある。世界で三例しか発見されていないけど。
このような理由から、解離性同一性障害の患者のほとんどが幼児期に何らかの幼児虐待を受けている。
そしてその多くは性的虐待である。
解離性障害の誤解。
解離性同一性障害は精神医学で認知されてからの歴史が非常に浅く、その特徴的な症状から比較的誤解されやすい疾患であると言える。
架空の病気であるという誤解
もっとも大きな誤解が、この疾患は存在しない架空の病気であるという考えである。
その理由の一つとしてよく挙げられるのが、近年における急激な症例の増加である。
そもそもこの症例はアメリカで主に報告され、その他の地域では滅多に見られないとされていた。
文化依存症候群にカテゴライズする人もいたほどである。
ところがアメリカのDSM-IIIで多重人格が取り上げられて以来、世界中で症例の報告が相次ぎ、一二年後にはICD-10にも多重人格のカテゴリが作られることになる。この現象の説明として、この疾患の存在を知った者が相次いでこの症状を偽ったのだという主張である。
しかしこの疾患は、統合失調症の診断基準の一つであるシュナイダー一級症状の全て、あるいはその大半を満たすケースが多く、同時に鬱病や境界性人格障害に似た症状を示すことが多いため、DSM-III以前は他の疾患と誤診されてきたのだろうと考える方が妥当である。事実、多くのこの疾患の患者は、その診断が下される前に何らかの誤診を受けている。
また、この疾患があまりに特徴的であるため、今までキツネ憑きなどシャーマニズムの一種として心霊現象として片付けられていた可能性も高い。広義のシャーマニズムは世界中に存在し、交霊が起こる様子がこの疾患の人格交代時の挙動に類似しているケースも在るが、シャーマニズムとこの疾患との関連はまだ研究が進んでいないので断定は危険である。
さらに、その特徴的で他人の興味を引きやすい症状から、虚偽性障害や詐病の対象となることが多い事実も挙げられる。このことが、この疾患の誤った認識を生み、また、この疾患の診断をより難しいものにしているとも言える。
もう一つの誤解が、別の疾患との混同である。
専門家にもこの疾患を統合失調症の症状の一つだと断定しているものさえあるが、統合失調症とこの疾患は、類似する症状が多いものの、全く別の疾患であるというのが現在の考え方である。
また、以前は解離性障害(これは解離性同一性障害を含む)が、ヒステリー(転換性障害と解離性障害の総称(現在はこの用語は用いられない)の一種として、カテゴライズされていたため、現在でもこの疾患が俗語的な意味でのヒステリー(一時的な感情の爆発)の一種と誤解されることがある。
しかし感情の爆発で人が変わったようになることと、この疾患とは何の関係もない。
さらに、解離性障害と境界性(人格)障害、多重人格障害と人格障害など疾患名の相似から、この疾患と境界性人格障害とを、混同している例も非常に多く見られる。
解離性人格障害という両者を完全に混同したおかしな病名を目にすることも多い。
この疾患が境界性人格障害に似た症状を示す例が多いこと、逆に境界性人格障害の患者が同一性の障害や解離を示す例が多い事実が、この混同をより深刻なものにしている。
多重人格の治療。
解離性同一性障害の治療に関しては、まだ研究が進んでいないというのが実際のところである。
治るか治らないかについてさえも意見が分かれることが多いが、治った、あるいは症状が改善したという報告も多く、不治の病と考えるべきではないだろう。
次に治療の方針であるが、以前は人格統合と言って、人格を一人ずつ消していく。医師の中には悪魔払いのような手法をとるものもある。
あるいは似通った人格同士をカウンセリングにより統合することで最終的に一人の人格に戻してやるという治療法が最善であると考えられていた。
しかし最近ではこの治療法については否定的な意見も多く、複数の人格はその必要があるから存在しているのであって、無理に消去することはかえって患者の状況を悪化させるという考えもある。
投薬についても、この疾患の治療には非常に長い時間がかかることから、身体への負担を考慮してなるべく投薬はすべきではないという考え方と、薬物療法と精神療法を併用して治療していくのが適切であるという考え方があり、議論が分かれている。
しかしどのように治療していくにしろ、この疾患が強い心的外傷に根差したものであることはほぼ間違いなく、PTSDに準じた処置が最低限必要であると考えられる。
診断基準によるこの疾患の名称の相違
DSM-III(一九八〇) Multiple Personality Disorder(略称MPD)、 和名 多重人格障害
親カテゴリ: Dissociative Disorder、 和名 解離性障害
ICD-一〇(一九九二) Multiple Personality Disorder(略称MPD)、 和名 多重人格障害、 ICD一〇コード F44.八6
親カテゴリ: Dissociative [conversion] disorders、 和名 その他の解離性[転換性]障害
DSM-IV(一九九四) / DSM-IV-TR(二〇〇〇) Dissociative Identity Disorder(略称DID)、 和名 解離性同一性障害
親カテゴリ: Dissociative Disorder、 和名 解離性障害
現在はDSM-IV / DSM-IV-TRに従い解離性同一性障害と呼ぶのが一般的である。
一八八六年、小説Dr. Jekyll and Mr. Hydeが出版される。邦訳ジキル博士とハイド氏 。
一九三二年、映画ジキル博士とハイド氏公開。いわゆる二重人格が話題となる。
一九八〇年、DSM-IIIにおいて、多重人格(Multiple Personality Disorder)が取り上げられる。
一九八一年、アメリカにおいてMinds of Billy Milliganが出版される。
一九九二年、ICD-10においても多重人格が取り上げられる。Minds of Billy Milliganの邦訳二四人のビリー・ミリガンが出版され、日本でも再度多重人格が話題になる。
一九九四年、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の被疑者が多重人格障害(当時)であるとする精神鑑定書が出される。DSM-IVにおいて、解離性同一性障害に名称が変更される。
二〇〇〇年、DSM-IV-TRにおいて、解離性同一性障害が再録される。
精神疾患症例。
Aは一七歳の時、学校から帰り道をつけてきた男に自宅入り込まれ、強姦されるという痛手を受けたが、このことを母に告げることができなかった。
母は彼女が小学生の時、暴力を振るう夫と別れ、二人の子供(Aと弟)を育ててきた。彼女は、毎日の生活に追われ、ゆとりのない母に、この不幸を告げることができなかった。
痛手を打ち上げる機会を与えない母を恨み、やがて激しい過食と嘔吐を始めるようになった。
これが母と彼女との関係を危機的なものへと追い込んだ。
Bという三〇歳代の女性の場合は、兄からの強制的な性的関係が、小学校の上級から高校まで断続していた。
彼女は結婚した兄から見捨てられたと感じていた。
ビンジパージ(食べ吐き)が始まったのも、兄が家を離れた後からのことである。
以来自宅にこもって食べ吐きを繰り返し、ときどきは酒に酔って家に火をつけるという危険なことまでするようになった。
両親は、この娘の行動に巻き込まれて、右往左往するばかりだったが、兄との性的関係がこの家で語られることはなかった。
Cという二六歳のような場合。Cはいわゆる嘔吐する過食症者で、家ではいつも食べているが、食べたものは皆吐いてしまうから、極端に痩せている。
幼児返りが酷く、小学生が着るような花柄のブラウスを着て、髪をおかっぱにし、幼児言葉を話す。
こんな風になったのは、大学二年の二十の頃だった。
不愉快な性交の後、食べ吐きが酷くなって、このボーイフレンドとの交際を避けるようになった。
結局、彼からの誘いは除々に減り、それと同時に母親と一緒にいて甘えていたいという欲求が強くなって、今では母親の腰巾着のようになって暮らしている。
Cの場合、性体験は強制されたものではなかったが、そのことを連想することは彼女を恐怖させ、過食嘔吐の引き金を引くことになった。
Eという三二歳の女性の場合。
幼時に父母の性交場面を目撃してから、しばらくそのことを思い出さないでいた。
しかし、二一歳の大学生の時、ボーイフレンドと数回の性交渉があってから、この思い出につきまとわれるようになり、それから過食嘔吐が始まった。
M、ワレンによる四二例の神経性無食欲症者の観察によれば、一〇〇%に無月経、六二%に便秘、四五%に食べ物への無関心、一九%に腹痛、寒さに対する不耐性、五%に嘔吐がみられた。嘔吐を除く諸症状はいずれも飢餓の際にみられるものと同じである。
体内脂肪の全含有量が、体重全体の二〇%以下に減少するほどに減量した場合には、どんな女性でも月経は停止してしまう。
こうした患者の性ホルモンの日内変動を観察すると、前思春期の子供のものに類似しており、男女ともテストステロン(男性ホルモン)レベルが低下していて、性的衝動の減退が見られる。
拒食女性では、骨盤の成長も一般より悪いという報告もある。
ただし、児童期、青年期の患者では、飢餓からの回復によって伸長速度が倍増、時には三倍増し、成長の遅れを取り戻す。患者が以前の成長を取り戻せるか否かは、成長の遅れがどれだけ続いたかによって決まる。
こうならないように!
こんな気分になっても。まだ生きられる。
見慣れた画像だよね?
でも汚い。
始末が面倒。
この下は糞尿塗れだよ。
ま、此処迄くれば綺麗かな。
生きろ、唯其れだけ。
何時だって死ねる。そうとは限らないって言うだろうけど、本気死ぬ気だったら、心臓抉り出したら生き物は死ぬ。
脳味噌摘出したら死ぬ。
出来ないのは、怖いから、本当は死にたくないから。
迷うなら、生きろ!
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